さらば、デスバレーよ

 若い頃は命の価値が軽いと思いがちだ。一般的な話ではなく、個人的な実感だ。死にたいわけではないが、死ぬしかないなと感じることはあった。具体的に思い出せるのは大学時代、ラグビーの試合でのワンシーンだ。僕のミスから逆転されて、そのまま負けたら「生きていられねぇな」と思った。

 幸運なことに、そこから勝ち越してミスの責任は軽減した。公式戦は勝ちゃ良いんだよ。その開き直りで生きてこられた。ただ、あのまま負けていても死にはしないだろう。ただ、そのあとで僕がどうするかという問題は残る。泣いて詫びただろうか。想像したくないので今まで考えたことはない。

 でも命がけで何かをやるというのは、あの感覚なんだと思う。責任の重さを背中に当てられた刃物のように感じてヒリヒリする感覚だ。ミスした直後の僕は、そのミスを帳消しにするために走り回った。とにかく走って、さっきミスした自分をスピードで置き去りにしようと考えたのかもしれない。

 あの感覚を得られるのは、やっぱり公式戦だからだ。練習試合は文字通り練習なので、ミスしても経験として学べば良い。でも、公式戦でのミスは致命的だ。むしろ、少ないチャンスをものにして勝たなければいけない。ミスしている場合じゃないのだ。それが分かっているからヒリヒリするのだ。

 僕は、あの頃チームのレギュラーだったわけじゃない。同じポジションの人間がケガで離脱したので、穴埋めとして繰り上がったに過ぎない。だから、ミスをしたら代わりの人間と入れ替わる。そこもプレッシャーだったが、なるべく長くレギュラーでい続けるためにもミスは許されなかったのだ。

 先日、大学の試合を見に行った時に、同級生にあの試合を覚えているか聞いてみた。あり得ないミスなので覚えているし、笑い話のようになっていた。あれから倍以上の年を経て、僕も気楽に笑えるようになった。でも、あのヒリヒリした感覚は思い出せるし、そのことは、僕だけの財産だと思う。

不慣れな駅で降りて大学ラグビーの試合を観に行ったら、迷ったし風邪ひいた。