しりとりタイムトラベル

 幼稚園児の頃の記憶は朧げにしか覚えていないが、なぜか脳裏にこびりついて離れないものがある。しりとりをしていて、早々に負けてしまったことだ。僕は「パイナップル」と言おうとしたのだが、口から出た言葉は「パイン」だった。咄嗟に短くした方がクールだと思って、ポロッとこぼれた。

 その時のことは、自分の中の感覚として覚えている。周りの反応や、語尾にパが付く言葉は覚えていない。単純にその自分の体内システムのようなものを覚えているのだ。合理化できるものは短縮して行こうという発想の源泉というか、そんな自分の合理主義をクールと思う気分の発生源のような。

 いまの僕は合理的ではない。仕事はムダを省きたいタイプだが、生活ではムダなものや雑事に囲まれている。それらをクールに分別する発想も浮かばない。僕の合理は業務遂行面だけに発動し、その交渉や人との関わりの中では萎んでしまう。内在するシステムだが、表面化させるのは恥ずかしい。

 なんとなく自分は要領が悪いと感じている。それは、他者から見た自分を想定した感覚である。実際に人から「要領わりーな」くらいは言われたかもしれない。そうやって他人から貼られたレッテルにセルフ洗脳した可能性もある。周りの期待、またはイメージする姿でいた方がラクなことも多い。

 要領が良いと、便利使いされることがある。僕のイメージが浸透していれば、便利使いの用件は振られない。そのことで同僚から非難されることもなく、何なら「代わりにやっといてやるよ」などと優しく言われることもある。それは半人前扱いということでもあるが、とは言えラクなぬるま湯だ。

 ただ、幼稚園に遡ると、僕は合理主義を愛するクール派なはずだ。きっと要領良くミッションを遂行できるタイプだと思う。どこかで、そのキーを落としてしまったようだ。しりとりで負けたことが起因しているのか。合理では正解だったものが、しりとりでは負けになる。それがトラウマなのか。

語尾にパの付く言葉は「スリッパ」だろうなと、この水門の前で思い出した。