スピリチュアらない魂

 酒場に行くと、いつも閉店時間まで居続けてしまう。カウンターにはいつもの面々。話題はプロ野球のあれやこれや。終盤に入ったので順位争いのことや記録のこと、最近のスキャンダルに関することなど、四方山話は尽きない。ここに集まった連中は全員、それぞれ異なるチームを応援している。

 酒場の常連は、顔は覚えているが名前を知らないことがある。古くからの常連なら名前を覚えているのだが、最近知り合った若い子は覚えられる気がしない。名前を覚える機能が著しく低下しており、酒場以外でも仕事で会った人の名前が出てこない。新しい情報を覚えられなくなったのだろうか。

 学生時代は部活オンリーだったので、先輩の名前を覚えるのはマストだった。大学では部員が100人以上いたので、必死で覚えたような気がする。覚えようと気合いを入れないと記憶されないのだ。最近の僕は気合いが足りていないから覚えられないのだ。特に酒場では気合いが入ることはない。

 精神論というと負のイメージしかないと思われるが、僕が学生時代に叩き込まれたのはまさに精神論だった。それはすでに時代錯誤な思考だったのだが、とは言えスポーツに関しては意味を持つ時がある。気合いが入ってないと、根性がないと乗り切れない局面がある。そこを越える原動力になる。

 万人にすすめないし、僕も大っぴらには言わないが、自分の中では根性とか気合いは役に立っている。まあ集中力のスイッチを入れるような感じなので、それは精神論とは言わないのかもしれない。でも、僕の実感としては部活で培った感覚として認識している。そう思い込みたいのかもしれない。

 健全な精神は健全な肉体に宿るなんてことを言うが、スポーツマンの頑健な肉体に必ずしも健全な精神が宿っているわけではない。悪いことをするヤツもいるし、卑怯なヤツもいる。僕の周りにはいないが、それは偶然に過ぎない。その偶然のおかげで無邪気に精神論を日常に活用できるのだろう。

僕の健全な魂を構築する要因のひとつが家系ラーメンであることは間違いない。