漠とした不安の中にいる

 何かの能力を犯罪に使った人に対して「あんなことができるなら、もっと社会に役立つことに生かすべき」的な意見を聞くことがある。それは確かに健康的な意見だけれど、健康じゃない人だから犯罪に向かってしまったと思われるので意見は響かない。その人は、ソレだけをしたかったのだろう。

 大きな事件に対して過剰に反応したり、影響を受けたりしたくない。なるべく平静で、平常心でいたい。ただ、好奇心だけは失いたくないので、無関心にもなりたくない。その出来事を自分の中に受け入れて、数多ある意見を精査したうえで自分なりに言語化したい。その言語化は内なる言語化だ。

 意見を構築してしまうと、その構造美に酔ってしまうのか、どうしても他人に開陳したくなる。その構造美への酔いが深いほど、さらに声が大きくなる。でも、声の大きな人のことを好きな人はあまりいない。隣で聞いてくれている人の心の耳は閉じている。酔っぱらいの言葉なんてそんなもんだ。

 だから意見なんて構築しない。ただ、起こった事象に対する自分のスタンス、向き合い方を決めておくだけで良い。「何も言わない」でも良いし「この点だけは触れておく」という部分的な処置でも良いだろう。とにかく、直接自分に害がないから無関心で良いという放置の仕方だけはしたくない。

 前世紀の終わりから今に至るまで、物騒な世の中は変わらない。種類を変えて、さまざまな物騒が襲ってくる。やはり、人間が無事に生きていくということは奇跡だし、毎日の生活はサバイバルである。油断できないし、毎日新しい危機の中で生きている。だからこそ、楽しく生きられるとも思う。

 数年前のライブで佐野元春さんがステージから送ってくれた言葉が胸に残っている。いや、言葉以上に熱いメッセージを受け取ったような気がする。オールドファンに向けて「サバイブしてくれてありがとう」と言ってくれた。僕もせいぜいサバイブしようと思う。重心は低く、でも肩肘は張らず。

コーヒーに垂らしたミルクが何かの形に見えるだけで幸せを感じることもある。