遠くの誰かと近くの彼ら

 ここではない何処かに憧れる気持ちは、特に20代には強く持っていたように思う。その頃の自分の周りに仲間が大勢いたから行動には起こさなかったが、無性に旅情に駆られる衝動は強かった。ただ、僕がそれを行動に起こさなかったのは、仲間がいたからだけではない。もっと具体的な理由だ。

 僕は20代の半ばでバックパッカーの予行演習のようなノリで、最初の会社を辞めてインドに旅立った。期限付きの航空券だったが、行く時は「帰りの分は無駄になるかも」と思っていた。故郷を捨てるってほど大袈裟ではないけれど、飽きるまで海外で彷徨ってみたいという冒険心は携えていた。

 で、実際には10週間でインド旅行を終えてしまう。街から街への繰り返しに飽き、酷暑に眠れず食も合わず、ガリガリに痩せて帰ってきた。飽きたとはいえ実際には楽しいことも多かったのだが、旅のリアルに疲れてしまった。そして、旅行先で日本のことを聞かれるたびに自分の無知を恥じた。

 そもそも都道府県すべてにガッツリ滞在したこともない男が、なにを海外に見出そうというのか。そう考えた時に、僕の旅は国内コンプリートで一生を終えるなと思った。そう考えた瞬間にムラ社会のしがらみに囚われるようなイメージが頭を占めた。ここではない何処かに自分の居場所などない。

 つまり、実際に予行演習的に試したバックパッカー体験で、すっかり牙を抜かれてしまったのだ。ひとりで気兼ねなく何処にでも行ってしまうという貴重な体験は、途中からアイデアの枯渇と目減りする好奇心により目的を失う。そもそもの目的は何だったのか。そういう軸を見失って飽きたのだ。

 あの頃の僕に憑依して思い出してみると、当時の僕は世界地図の距離感を実感したかったような気がする。旅行記でなんとなく読む描写を実体験したかっただけなのだ。逆バーチャル深夜特急沢木耕太郎の旅の名著)のような気分は確かにあった。要するに初手から自分発信の行動ではなかった。

近くに操車場がないので滅多に見ないが、跨線橋からの眺めはワクワクする。