諸説あり、すべてが正解
スポーツ中継を観て、その結果を人と話すのは楽しい。特に自分の意見がない場合でも、誰かの意見の中に自分が感じたことと近いものがあると親近感が湧く。その親近感から信頼が生まれ、自分で言語化できない事象を代行してもらったりする。もちろんそれは会話の中から無断借用するのだが。
先日、オリンピックでのソフトボールの決勝戦を観て、数人の話を聞いた。単純に金メダルが取れて良かったという人もいれば、参加国が少なすぎることが気になるという人もいる。そんな中で、投手交代のことに触れた人がいた。ソフトボールは一度降板した後で、再度登板できるルールがある。
その再登板のタイミングが「早くね?」と思った人は結構いたのではないか。解説の前監督の方も「うーん、そうかなぁ」と本音が漏れていた。そのとき僕は、2番手ピッチャーに2アウトまで任せてから最後の締めに出るのが良いんじゃないかと感じた。いや、結果的には勝ったから良いのだが。
僕はその試合での起用法などに文句を言いたいわけじゃない。ただ、その件に対して周りの仲間たちがどういう意見を持つのかという点が気になるのだ。試合に関しては当事者ではないので、外野は本人に聞こえないところで囁くだけのこと。ここでの言葉を当人に伝えたいとは露ほども思わない。
ハッキリ言うと、この手のガヤはクローズドな場所で語らわれるべきものだ。それが、エスエヌエスで発信する時代になり、個人の見解を無駄に公表できる場ができてしまった。本人もそこまで煮詰まってない意見を、脊髄反射的に垂れ流してしまい、それに対するレスポンスで拡散されてしまう。
みんな、本当は僕のように多種多様な意見の中から「あ、僕と同じだ」というのを見つけたいだけなのだろう。でも、僕は同じ意見を持っている人にそのことは伝えない。それを伝えてしまうと、それ以降の意見交換で僕に寄せてしまうかもしれないからだ。誰もが独自の意見を持っていて欲しい。