すべて根性のせい

 学生時代を部活だけに生きてきた人間にとって、根性というのは切っても切り離せないものになっている。自分に関わりのないスポーツでも、最後の詰めの部分では根性だけがものを言うことを知っている。みんなが嫌いな根性だけれど、それがないとスポーツの頂点には立てないと思われるのだ。

 昨今よく聞く「呼吸をするように努力できる人」というのが、いま現在スポーツの世界で活躍していると思われる。それは、努力をする才能があるということだろう。僕には無縁の才能だ。誰もやりたくない努力だから、やった分だけ地力がつくと思って生きてきた。その努力の原動力が、根性だ。

 やりたくないことをやった対価として能力を手に入れられるというのが、僕がスポーツを通じて実感したことだ。数少ない成功体験はすべて、そんな努力の末に手に入れた小さな成果だった。でも、この世のスポーツマンの多くは初手から「できる」ことが多い。無駄な努力をするまでもないのだ。

 中学生くらいまでは、努力の末の成功を信じていた。高校生になると、努力しなくてもセンスで初手の伸び率は変わると実感することがあった。選択体育の授業でテニスを選んだとき、できるやつは下地もないのに普通にラリーしていた。僕は打球がコントロールできない。やはり努力が必要なのだ。

 そうなると、努力を選ぶことになる。僕にとってテニスは必要なことなのかと自問した末、この努力は無駄だと判断してしまった。いま考えると安直な判断だ。スポーツは、複数の競技をマスターした方が豊かな人生になる。体で理解したスポーツは見ても楽しいことを、ラグビーが教えてくれた。

 オリンピックはスポーツの見本市だ。自分が体験しなかった競技を見るたびに、あったかもしれない人生を考えてしまう。でも、僕にはラグビーがあるので、他の選択肢を考えずに生きられた。ラグビー以外の競技で根性を使うのが嫌だった。僕は、ずっと根性の出し惜しみをして生きてきたのだ。

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激辛料理も根性で食べられると思うが、食べたいとは思わない。