負けない負け犬、吠える

 多視点の小説を読んでいると、その視点の転換によって思い入れが変わってくる。先日読んだ本は田舎の駐在と調査官のバディものだったのだが、最初に駐在の視点から始まるので、そちらに感情移入して読んでいた。でも、序盤の感じで、この感情移入は失敗かもしれないという予感がしていた。

 最初に語り出したヤツが主人公だと思ってしまう。そして、どうしても弱者の視点に肩入れしてしまう。いい歳して弱者側でしか物を見れないというのも如何なものかと思うが、現実問題として僕はその視点しか持てないのだ。だから、その小説の序盤で調査官が主役だと分かっても引けないのだ。

 まあ、小説をどんな気分で読もうが僕の自由ではあるのだが、主役を見誤ると言うことは話の流れが残念な方向に転がることになる。その先行きの不安を抱えて読むのはシンドい。すでに読み終わったが、やはり僕の懸念通りその駐在は情けない役回りのためだけの舞台装置、脇役に過ぎなかった。

 小説に限らず、僕は弱い方を応援することが多い。日本が世界的に強いとされているスポーツの試合などでは、思わず相手の国を応援してしまうこともある。この資質を培ったものは、学生時代に没頭したラグビーかもしれない。今では日本も強豪国になりつつあるが、当時はまだマイナーだった。

 マイナー種目の競技者として、少しずつ劣等感のような感覚を育んでしまったのだろう。特に最初の会社に入った頃は、ラグビー経験を話すとイヤな反応をされたものだ。僕の前任者がラグビー経験者で、その人間の評判が悪くて、僕とその人をラグビーで関連付けて文句を言われたこともあった。

 その時の感覚としては、劣等感というよりは反発に近い感情を抱いた。見ず知らずの前任者に恨みはないが、その人間と比べて何かを言われるのは気分が悪い。だが、やっぱり同じスポーツを選んだ者として、その辞めた前任者にはシンパシーを感じる。その決してドラマの主役になれない人生に。

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スタミナのつく料理を食べるたびに自分は労働者だと実感する。旨いけど。