宇宙から見りゃ同じこと

 僕はあまり他人を信用しない。それは、信用が過ぎると依存に変わることを知っているからだ。過剰な信用で他人に甘えたこともあれば、その逆の経験もある。そうやって、人との関係を学んできた。あまり深く付き合ってもロクなことはない。付き合いが長くなるほど言えない言葉が増えるのだ。

 とは言え「誰も信用しない」と言うのは寂し過ぎる。僕にも信用できる人間はいる。その人に対して自分が信用に足る人間かどうかは自信ないが、僕がその人を信用していることは伝わっているだろう。そういう人が一人でもいるならば心強い。別に何か具体的に頼るわけではないが、心棒になる。

 酒場には気心知った仲間がいるが、その関係性は刹那的なものだ。その場限りだ。別の日に同じ店に行っても、同じような客と同じように盛り上がることはない。それでは盛り上がったあの日のトレースになってしまう。そんな芝居じみた行為を好きな人がいる。人それぞれの楽しみ方があるのだ。

 パターンを作りたがったり、共通のギャグで繋がりたいタイプの人は、学生時代から一定数いる。クラス替えで最初に目立つヤツだが、このタイプは最初に嫌われる。ずっと影で馬鹿にされているか、表でも嫌われるかのどちらかだろう。小学生の頃の僕はこのタイプだったが、すぐに気が付いた。

 最初から明るくバカ騒ぎするタイプは、先生にイジられるのだ。そうやって初期のクラスの雰囲気作りに加担させられるので、なんとなく教師の犬のような存在になる。僕がずっと教師のことを好きになれなかったのは、この利用法に気付いたからだ。その上、同級生にも嫌われるのだからツラい。

 その役割を運命かのように背負い、酒場でゴキゲンに振る舞う酔漢を知っている。いつもソワソワした気持ちで眺めているが、最近は諦めの境地に達している。すでに不惑を過ぎた人間は、今後も変わることはない。バカ騒ぎのパターン化で楽しい夜のパッケージを試みる日々はしばらく続くのだ。

滝を見て涼しくなりたいと思うのだが、滝までの道のりは険しいので汗をかく。