この街のスワンソング

 アーティストが遺作で残した名演のことをスワンソング白鳥の歌)と言うそうだ。白鳥が死ぬ寸前に美しい声で鳴く、という故事に基づいた言葉らしい。当然ながら諸説あるようなのだが、そんな話があってもいいと思う。真実かどうかではなく、白鳥の歌と表現されるものには力がありそうだ。

 今日から僕の住むエリアも緊急事態宣言下に置かれる。僕が通う酒場は、ほとんど休みに入ると言う。アルコールを提供できないのに営業しても「意味ないよ」と、半ばヤケクソ気味に笑っていた。今日から今月いっぱい休むというので、昨日が宣言前最後の営業だった。挨拶がわりに顔を出した。

 その店は、初めて僕が手に入れた居場所だった。何度も通うことで店主や従業員と話せるようになり、気軽に入れる店を作ることに成功したのだ。その頃は「行きつけの酒場」を欲していたので、かなり意識的に店の人に近づいた。でも、本当は他の客と仲良くなった方が良かったのかもしれない。

 店の人にとっては客だから、ヒマな時なら僕の相手をしてくれる。ただ、忙しい時は注文で声をかけるのも憚られるくらいバタバタと走り回っている。そんな時に話す相手がいないと、手持ち無沙汰になる。そのためには酒場の常連と仲良くしておき、酒場の「魔の刻」をやり過ごすことが賢明だ。

 僕は、ひとりでむっつり飲んでいても楽しいというタイプではない。でも、酒場のカウンターにはそういうタイプの常連がいるという思い込みもある。だから、誰彼構わず声をかけることは避けていた。初見の人と話すのは疲れるので、個人の空間である酒場で疲れたくないという気持ちも大きい。

 だから酒場の店員さんたちと話している方が気楽だ。そこに割って入ってくる話好きの常連さんなら、自然に話せるようになる。そうやって少しずつ酒場での居心地を向上させてきた。そんな酒場が2度目の長期休暇に入る前の昨夜は久しぶりに賑わっていた。まるでスワンソングのような喧騒だ。

f:id:SUZICOM:20210802165121j:plain

食べ物が美味い酒場だが量が多いので、いつもほうれん草サラダはハーフ。