時は流れても涙は涙

 すこし古い本を読むと、文中に微妙な心境にさせられる表現を見かける。特に昭和に活躍した作家の文章などは、今の感覚で読むと配慮が足りないように思える。いわゆるジェンダー蔑視的な表現なのだが、その時代には問題視されない表現だったようだ。それが問題の根深さだとも言えるのだが。

 僕はミーハーな人間だ。その時代の流行に対しては、大なり小なり影響を受けてしまう。その影響は目に見えて表れるわけではなく、その流行に対して自分なりの角度で反応する。昨今のポリコレ的風潮も全身で浴びて、すでに影響下にいる。だから、冒頭のように古い本を読みにくくなっている。

 とは言え、僕は差別的な表現はむかしから苦手というか、そういう表現に当たるたびに「配慮が足りないな」と感じてはいた。古くは小学生の頃、担任教師が転校生を紹介する前に、僕らに「お前ら笑うなよ」と言った場面に遡る。何故そんなことを言ったのか。その転校生のルックスの話である。

 彼は色黒で強めの天然パーマだったので、当時流行っていたエマニエル坊やに似ていた。それを初見で知っていたから、その教師は「笑うな」と注意したのだ。でも、その注意が呼び水になったのか、彼が教室に入ってきた瞬間に大爆笑が巻き起こった。逆に言えば、教師の言葉がフリだったのだ。

 こんな最悪の転校初日を迎えたのに、その後の彼はご機嫌な学校生活を送っていたように思える。それは、彼のバイタリティもあるとは思うが、初日の洗礼ですべての禊ぎが済んだということかもしれない。あんな酷い迎え方をしたのだから、それ以降は誰も彼のことを外見で笑うことはなかった。

 ここまで記して、僕は自分のことを棚に上げていると気が付いた。僕も教室で笑っていた一員だったし、その後も学校で当たり前に行われた小さなイジメに無関係だったわけじゃない。当時の同級生は全員が共犯者である。そこでの経験を経て、そういう感覚に自分が拒否反応を感じると知るのだ。

線路は僕にとってノスタルジーのメタファーだ。駅なし市に住んでいたのに。