ほろよい中年の憂い

 有名人が問題を起こしたりすると、不特定多数の反感を買い再起不能に近い状態になることが多い。そうなったら別の方法で生きていかなければ立ち行かないほど、元いた場所への復帰が難しい状況だと思う。そもそも当事者間の問題でしかないのに、匿名の外野の声が大きく聞こえるからだろう。

 実名には触れないが、ここ数年不遇な状況に立たされている海外の映画監督がいる。その人の過去の問題行動が、再びクローズアップされて干されている状態らしい。その問題行動については、当時すでに裁判で争われており、ちょっとグレーな印象を残しつつも立件には至らなかったようである。

 その過去を、成長した実の息子が改めて告発というか、記事にして発表したのだ。権力を持つものが犯した罪を償わずにのさばる世界への不満と共に、その記事が共感を呼んで拡散されていった。アクティビストとして立ちはだかる息子との対決は、老いた映画監督にとってどんな気分なのだろう。

 この件は、以前からうっすらと知ってはいたのだが、ちゃんと知りたかったので、詳しく書かれた本を最近になって読んだ。それを読んで思ったことは、事実は分からないけれど、この件に触れるのは「怖いな」ということ。いまの世界で最強なのはロジカルな弱者で、そこを刺激しそうだからだ。

 いや、弱者という表現も怖いな。弱者に手を差し伸べる側と言うべきなのか。でも、差し伸べる人はロジカルで強いわけだから、その人もある種の力を持っているのだ。その力は正義と呼ばれているのだろうから、圧倒的な正しさで悪を叩くのだ。正義を怖く感じるのは、何か大きな矛盾を感じる。

 かつてタモリさんが「正義というナイフは人を傷つけるからな」といった意味の言葉を呟いてハッとしたことがある。強すぎる正しさが相手を傷つけることを、誰にともなく嗜めるような、諦めたような言い方だった。あまり正しさを基準で考えないようにしたい。優しい方が良いに決まっている。

f:id:SUZICOM:20220109210526j:plain

休日の昼下がり、好天の下で散歩などしていたら、憂いなど消えるだろう。