たかが言葉に縛られて

 常套句のように、あまり深い考慮もなく吐き出される言葉に違和感を持ってしまう。昨日も似たようなことを書いたが、今日は口癖ではなくクリシェ(決まり文句)のこと。僕が最近、いや数年前から気になっている言葉は「ほぼほぼ」という言葉。なぜ重ねるのか。そして、なぜ多用されるのか。

 言葉は短縮される傾向があると思うのだが、ここにきて2文字増やすのはどんな意味があるのだろう。気になって調べたところ、2016年の新語・流行語大賞に選ばれているらしい。まったく記憶にないし、この新語・流行語大賞に対しては言葉を軽くする存在として警戒して見ていたりもする。

 その大賞の是非については置いても、そこで選ばれるということは限定的な流行のように思ってしまう。一発屋というか、大衆から自然発生したような言葉なので一過性の流行り言葉という扱われ方をすることが多いと思う。でも、今でも「ほぼほぼ」は聞こえてくる。「ほぼ」よりも頻繁に聞く。

 実を言うと僕も使ってしまうことがある。使った後で違和感を感じるので「使ってしまう」と表したわけだが、その違和感はつまり自分で「ほぼ」を2つ重ねる理由を持っていないからだ。ただ、なんとなく「ほぼほぼ」と言った方が場に馴染むのだ。それは、何も言ってないのと同義なくらいだ。

 元々の「ほぼ」の意味するところは「おおよそ、大体」といったところだろうか。その実際の意味においては、2つ重ねたところで大した変化はない。ただ、元の意味するところをさらに曖昧にする効果はありそうだ。婉曲表現というやつだ。断定を避けるときに便利使いできる万能ワードなのだ。

 ここで、このように意識してしまったので、今後は僕も「ほぼほぼ」この言葉を使いづらくなってしまった。逆に、通常の「ほぼ」ですら使いにくい。ほぼほぼユーザーへのアンチの意味合いが出そうだからだ。他の人が言う分にはあまり気にならない。ただ、自分が無自覚に使うことが嫌なのだ。

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俗世の縛りから解脱するためにインド旅行に行ったけれど、何も変わらない。