数字を数えるだけの日々

 僕はピンチになると数字を数えている。数字に縋っていると言い換えても良い。そのピンチを数字でなんとか誤魔化せないかと、セコく算段しているのだ。それは普段数字にシビアじゃないから、そこに抜け道があるんじゃないかと期待してしまうのだ。そして、数字でなんとかなった試しがない。

 いつも数勘定をおざなりにしているので、ギュッと締めれば無理が通るのではないかと甘く考えている。むしろ、普段からそこを適当にしておくことで、最後にヘソクリのように帳尻合わせする余裕を作っておこうという意図も見られる。だから、結局は最初から余白をもって事に臨んでいるのだ。

 ソフトが自動計算するようには、人間の頭はキッチリと計算できないと思っている。でも、適当な現場合わせに見えても、実際はある程度の精度で計算をしている。それを最後の方で調整しても、やりくりで誤魔化せる分量はほんの少しだけ。そんなやりくりに奔走している。仕事の大詰めである。

 ちょっと話が逸れるが、この世に数多あるややこしい言葉の中で最たるものが「おざなりとなおざり」だろう。2段前に「おざなり」と記した時に、自分でちゃんと理解していないのに使う恥ずかしさがあったので調べた。どちらも意味合いとしては「いいかげん」という点で共通しているらしい。

 こういう言葉は統一してほしいと思う反面、このような使いにくさを残しておくのは先人たちの嫌がらせなんじゃないかと思ってしまう。いつの時代も年寄りは、若者の言葉の乱れを嘆くものだと聞く。だから、こういうトラップを仕掛けておいて、年寄りに聞かないと分からない仕様にしている。

 話を戻して、現在の僕は数字を誤魔化せないか計算している。恐らく計算して誤魔化す方向では問題は解決しない。いつも最後は正直に話して時間の猶予をもらうか、仕事の量をシェアして調整することになる。いつも前倒しで進めるのは、この調整が嫌だからだ。やっぱり、もう一回数え直そう。

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自分が数字と電車の路線に弱いという思い込みが強く、自分を信用できない。