なんでも2セカンズ
むかしから、早く雑に、あっという間に済ませられることを「2秒でできる」と言ってしまう。早さを表現するのに1じゃなくて2を選ぶのは、短絡的な1よりも「少し考えた感じのする2」ということだろうか。あとは文字数の関係で、「いち」よりも「に」の方が短いのでスピード感が生れる。
小さい頃、子供の与太話で大金を手にするなら「いくら欲しい?」みたいな話をしていたときに「200万円」と言う近所の子がいた。その子の思考回路によると、やはり100万円は短絡的だと思ったそうだ。それに200万円の方が倍多いとも言っていた。それを言い出すとキリがないのだが。
結局その大金ゲットの夢想は、最終的には「2京」まで行った。僕らが知っている単位の限界まで行って、バカバカしくなってやめた。ただ、それでも誰かが1京と言ったところに2を被せてくるところに、彼の意地を見たような気がする。それ以来、僕の脳内にも「2信仰」が根付いてしまった。
部活で、先輩から買い物を頼まれて「2秒で行ってこい」などと無茶を言われることがあった。普通に買い物の手順を考えたら、秒単位で買えるものなんて自販機のジュースくらいだ。でも、先輩はそんなことを言っているのではない。ダッシュで行ってこいという意味だ。よく走らされたものだ。
つまり2秒と言うことで先輩も遊んでいるわけだ。使いっ走りという非道に対する照れ隠しとして、無茶な時間を提示して笑いでごまかそうとしている。僕も2秒で帰ってきたことはないし、取り立てて急いだこともない。先輩に見えるところから走って、急いで買ってきたアピールをするだけだ。
僕の中で2秒は概念に近い。そこに見えるのは時間の単位ではなく、必死で面白いことを生み出そうとする子供たちの知恵だ。ほとんど何もできない2秒という時間に、僕らは意味を見出したのだ。バカバカしくなるような早さであり、その割には何もできない2秒への回答。それは優しさである。