ガラスの世代間断絶

 社会人になりたての頃、上司や先輩がゴルフの話しをするのが嫌だった。感情と顔面が直結していたので、表情にも出るし、隠そうともしなかったので注意された。その上、先輩から「お前もやるんだから」と既定路線のように言われるのだった。背が高いので「飛びそうだな」などとも言われた。

 別の上司からは「飛ぶかもしれないけれど、アプローチが下手そうだ」なんて妄想でダメ出しをされた。よく聞く「教えたがり」のタイプだろうと想像した。その時の僕は、内心で「絶対にお前なんぞに教わるもんか」と毒づいてはいたが、ゴルフをやること自体は受け入れるようになっていった。

 結局、今に至るまでゴルフはやっていない。でも、上の世代の常識に最初は反発するけれど、徐々に受け入れるようになっていくのだ。そうやって、社会人という海に溶け込んで大人になっていく。自分の個性はひとまず置いて、大枠の大人というプロフィールを得ることで生きやすくなると思う。

 以上は、僕が当時感じた大人の階段プロセスだ。現代は違うかもしれないが、20数年前はそんな風に感じた。最近の若い世代は、この上の世代の常識に関して「古っ」とか「知るワケないし」と言って拒絶を示すのがスタンダードになっている。昨今の多様化というトレンドも関係しているのか。

 この拒絶が生まれる段階は一瞬のことだと思う。その拒絶期を一生続けると、純粋に個性的な存在のまま大人になれるのだろうか? そんなに個性って尊重されるものなのだろうか? いや、むしろ拒絶しなかった僕が変種なのかもしれない。僕は上の世代のブルースを聴いてしまうタイプだから。

 年長者の常識に関しては鬱陶しく思うことが多かったが、個別の先輩たちはみんな楽しい個性的存在だった。こちらの不満なんて見透かしていたし、それを踏まえてつまらない常識の話もするのだ。そういうことに気づかされて絡め取られるのも悪くはない。僕はそれを最後に拒絶してしまったが。

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内向的だからこそ壁を作りたくはない。そんなことをいつも思っている。