君と僕の時代はいま

 世代の違う人とは、どこかしら話が合わないと思ってしまいがちだ。それぞれの個性とか育ってきた環境のことはひとまず置いて、それよりも教育の違いを考えてしまう。僕の世代は偏差値偏重の詰め込み型教育とか言われているようだし、ある時期はゆとり教育というのもあったので格差がある。

 どちらが良いということではなく、その違いが世代間の断絶を生むことはありそうだ。その違いがあるんだろうなとボンヤリ感じていることで、早い段階でコミュニケーションを諦めてしまうのだ。本当は話せば分かるのだが、話す前に「この子の年齢だと◯◯世代かな」などと考えてしまうのだ。

 そこに無理してチューニングすると、向こうもコチラに多少寄せてくるので、完全にすれ違ってしまう。もしくは年長者の方が気を使って若者に極端に寄せたりすると、その痛々しさに相手が引いてしまう。引かれると「せっかく年上のオレが寄せてるのに引きやがって」とアツくなることもある。

 僕はバイト生活の頃に、同僚の人間を年齢で区別すると面倒だなと思って、そこからの新しい人間関係はなるべくフラットにするようにした。その後ひとりで酒場通いするようになってからは、酒場の住人は一律「さん付けの敬語」で入るようにした。あとで年齢を知っても馴れないことも大事だ。

 年齢が違っても、面白い人間は分かる。若い人の好む笑いに乗れなくなっても、その年齢の人間がすべて主流の笑いが好きなわけではないのだ。気の合う仲間はどこにでもいると思う。若くても年寄りでも、僕と同じものを見て笑う人間はいるはずなのだ。そんな出会いを逃さない努力は続けたい。

 とは言え、感性が同じ人間のことを無条件で好きになるわけではなかったりする。なんとなく僕が言いそうなことを、チョット違う言い方で話す近い感性の人がいると、そのチョットの違いが気持ち悪くて避けてしまう。何を話すか想像がついてしまうし、その自分に似た姿を見ていられないのだ。

朽ちた建造物は好きだが、廃墟が好きなわけじゃないと分かったのがこの時。