対人関係の演出アレルギー
何年か前に知り合いの女友達がやっているブラスバンドの発表会を見に行ったことがあって、知り合いヅラして最後まで成り行きを伺っていた。発表会の後で子供に教えるくだりがあり、そこで演奏を終えた彼女たちが子供と接する様が堂に入っていた。普段は見せない「仕事の顔」のようだった。
僕は子どもにナメられるタイプのようだ。少なくとも学生時代から20代前半にかけては多いにナメられてきた。いや、30代に入っても、友達の子供などからナメた口を聞かれて不機嫌になったものだ。今では相手にもされない。それでも子供には優しく接しなければならないと常に思っている。
僕が持て余してしまう子供に対して、あの時の彼女たちは何の苦もなく生き生きとコントロールしていた。奇しくも女性だけの楽団だったから、仕切る役の人間は女性しかいなかった。もし持て余すようなら「手伝ってもいいかな」などと直前まで思っていた僕の傲った性根を張り倒してやりたい。
男女差別ではないと思うのだが、むかしから女性の方が仕事ができると思っている。いや、僕の周りにいる女性がたまたま有能だっただけなのかもしれないし、僕が極端に仕事ができなかっただけとも言える。後者は実際にそうだろう。僕は人前で「仕事ができそうに振る舞う」ことですら苦手だ。
仕事ができる、できないに関わらず、他人への自然な配慮とか優しさを持っていれば相手との関係性は保てる。そういう地道な丁寧さで何とかギリギリ生き延びてこられた。不器用きわまりない。本当は冒頭の楽団の女の子たちみたいに、与えられた場に瞬時に対応できる人間だと思っていたのに。
思い返すと30代の頃は、やたらと場違いな場所に顔を出すことが多かった。それは、どんな場所でも平気でいられる自分の土台を作ろうとしていたのだろう。でも、土台を作る材料がなくて、ただただ恥ずかしい思いだけを重ねてしまった。場慣れした分だけ図々しくなったが、理想とは程遠い。