こだわりはシークレット

 以前、ダンディにはこだわりが必要だというようなことをココに記したことがあると思う。それは、ただ中年が生き続けていればダンディ認定されるわけではなく、そう呼ばれるからにはそれ相応の資格のようなものが必要だと思ったからだ。ただ、僕はあまりこだわりを前面に出したくないのだ。

 個性を声高に主張する人というのは、その周囲にいる人間の個性をないがしろにしているように見える。「叫ばないお前らは無個性で、叫びを持っている自分は偉い」という発想が透けて見えるからだ。その個性の出し方が個性的じゃないと思ってしまう。個性的な人間は目立つという発想が古い。

 確かに存在感を放つ個性的な人間というのはいるし、隠そうとしてもハミ出すのが本物の個性だと思う。でも、自分の主張を大声で言うのは単なる承認欲求に過ぎないのだ。隠して、ハミ出た個性ではない。そんな大声は、個人が持っているこだわりを他人に押し付けるような野暮な行為だと思う。

 僕が以前ココで記したダンディは、ステレオタイプな個性を常備させることで完成させた偽物のダンディだった。その偽物の徹底ぶりが、逆に僕には本物に感じられたから、その敬意を込めてダンディと心のなかで呼んでいる。こだわりを偽装して自分の本体は見せない、そういう徹底ぶりなのだ。

 個人的なこだわりを自分の本質、自分の大切なもの、自分の重要な個性として前面に出してしまうことへの危惧がある。どんな生き物でも急所は隠したいものだし、弱点は晒さないものだ。晒して良い弱点ならば、それは弱点ではない。先のダンディの擬態も、こだわりに見せかけたポーズなのだ。

 先ほど、春の甲子園の中継を見ていて、いつもながら名門校の帽子は変なカタチに細工していると感じた。あの帽子の細工について言えない雰囲気があるのだろうか。絶対に変なのに、今や誰も触れない。こだわりというのはアンタッチャブルなものになりやすい。それは、明らかに急所だからだ。

※今回引用したダンディに関する記述は、当ページ2021-03-06更新の〈残り香が彼のメッセージ〉を参考にしたもの。

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日曜日の雨でこの咲きっぷり。今朝はさらに咲いていたが満開とは言わない。