ほんとうのことは無価値

 歯に絹着せぬ言動をカッコいいと思う時期がある。忖度なしの発言は気持ちが良いものだが、それは、その場が停滞している場合に限る。大きな権力的な存在のせいで誰もが止まっちゃっている時に、その重石を取り除く行為として発言する分には、周囲から喝采を浴びることになるとは思うのだ。

 例えば会社などで、誰も社長に文句を言えない状況の中で、ヒラ社員だけどクビを恐れずに社長に文句言える人は、その会社内では小さな尊敬を集めているだろう。それをキャラ化して、言いやすい状況を作った努力は認めても良いと思う。でも、それは本人が生きやすい状況を作っただけなのだ。

 その成功体験を仕事以外の場面に持ち込むと、単なる厄介キャラに陥ってしまうことになる。酒場の常連たちとの関係性に「ぶっちゃけキャラ」というのはステレオタイプに過ぎる。むしろ、もともと本音以外は話さない。素の自分が話す本音なので、キャラとしてのぶっちゃけは白々しく感じる。

 そういう本音至上主義の中で、いかにキャラ立ちできるかに心血を注いでしまう人がいる。目立とう、頭ひとつ抜けようというマウント行為は無駄なのだが、それらの意思は染み付いた性質なのだろう。本音というのは必ずしも攻撃的なものではないのだけれど、目立ちたい人の本音は過激化する。

 酒場で酒が入ると悪口しか言わない人の筋道は、こんな風に悪目立ちでも抜けたい願望なのではないかと想像する。それを注意、または指摘すると、その親切心もまた攻撃対象になる。そうやって孤立し、次第に相手にされなくなる。たぶん、自分で自分を追い詰めていることは自覚しているのだ。

 でも、そもそもキャラ武装する人を「強い」とは思わないので、周りの人は基本的に心配している。本人的には弱さを見せたくないと思って武装しているのに、その武装が弱さの象徴だという矛盾がある。逆に弱点を晒して生きる「本性丸出しの人」とも言えるが、その評価は本意じゃないだろう。

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生き方の教習所はないので、誰でも同じように人体を乗りこなせない。