パーソナリティ・クライシス

 たまに目に入る文言で「自分らしく生きる」的なことを正義として人に押し付ける記述を見かける。一見聞こえがいいように思えるが、その人に言われなくても誰だって自分らしく生きていると思う。むしろ、そんな赤の他人に誘導された自分らしさなんて、ちっとも自分らしくないと思うのだが。

 先ほどスマホの無料ゲームをやっていたら、まあこの手のゲームはやたら途中に広告が入るのだが、その広告の中にその手合いが混ざっていた。その「自分らしく生きる誘導」がどこに導こうとしているのか、一瞬だけ興味を抱いてしまった。でも、ミイラ取りがミイラの例もあるので我に返った。

 他人には自分らしくと言いながら、結局その人は(というかその会社は)自分の都合のいい人間に改造しようとしているのだと思う。その自分らしさは「その人に似た性格」というのに過ぎない。表層の生き方だけを見て、周りが「あの人は自由そうだ」と羨むような、ステレオタイプの自由さだ。

 いつも貧乏で文句ばっかり言っているけれど、なんとなく幸せそうに見える人がいる。身の丈に合った生活というか、自分で手に入れた生活をしっかり回している人間の強靭さがある。そういう人の真っ当な生き方を否定するような傲慢さを、自分らしさ至上主義者の広告から感じてしまったのだ。

 個性を尊重することが悪いとは思わない。それは他人を尊重する、人間をナメないということと同義だと思う。全ての人間がいちいち個性なのだから、それを尊重することを声高に言う必要はないのに、その声は個性的に生きることに対する「条件」のようなものを強いているような気がするのだ。

 これを突き詰めると、自分らしく生きるだとか、自分の意見を持つとか、やりたいことがあるなら積極的になれと、結局どんどん誰かの価値観で追い詰められるのだ。市井に紛れ込み、埋没した中で熟成させたい個性もあるだろう。誰もが生きている間は、自分らしさを表現する途中なんだと思う。

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何も知らずに「どこにでもありそうな風景」などと言ってしまうこともある。