勝手にしやがれば良い

 ワガママなつもりはないが、自分の都合で仕方なく話すと「勝手だな」と言われることがある。コチラとしては精一杯の譲歩を見せたつもりでも、立場が違えば「勝手」にしか見えないのだろう。そういうことが、よくある。僕が相手のことを考えて迷うと、その迷いは別の意味で捉えられるのだ。

 ちょっと突っ込んだ質問をして反応が怪しいと疑うような、そういう見られ方をする。僕はいつでも相手のことを考え過ぎてしまう。基本的に八方美人タイプなので、誰からも好かれたいと思っている。それは配慮だと思って欲しいのだが、単に嫌われたくない消極的な保身と思われても仕方ない。

 僕は生涯を通してワガママにやれたことがないので、他人に「勝手だ」などと思われるのは本当に不本意なのだ。こんなに熟考した挙句の答えを自己都合として雑に扱われると、はらわた煮えくりかえってホルモン鍋状態になる。とにかく、勝手呼ばわりされる筋合いない大会の上位入賞者なのだ。

 ただ、そこでやむを得ないと思うのは、対立構造が生まれると制御できないということだ。誰かと対立すると、面と向かって異なる主張でぶつかることになる。それは喧嘩だ。この世のあらゆる喧嘩は不毛。向かい合った人間同士は最短距離で近づきそうだが、心の距離は平行線を辿ることになる。

 世の中がすべて、不良番長の河川敷タイマンでドローのような剝き身のステゴロで終わるのなら「喧嘩最短説」は立証される。でも、ほとんどの喧嘩は戦わない。特に大人は戦ってはいけない。大人の拳は財力や説得力など、暴力以外の戦いで用いられる武器に置換される。どちらも、僕にはない。

 そこで思うのは、僕は果たして他人と戦わせるほどの意地を持っているのだろうか、ということだ。それは相手による。仮にその相手が、僕の意地の源泉を脅かす存在の場合は、戦わざるを得ないかもしれない。誰かがサバイブするための障害になるのならば、仕方がないが戦わなければいけない。

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勝手に生きるのは自由だが、自分だけが生きる世界では竹の子そばは食べられない。