名もなき街角で二度見

 今まで生きてきて、通りすがりの風景に心を奪われたことなんて何度もあったと思う。その時に立ち止まれたかと考えると、それらは全て瞬間に通り過ぎて捉えられずに忘れてしまっている。僕の趣味嗜好が決定してからは、後で戻ろうかと思うこともあるが、若い頃は過ぎたら忘れてしまうのだ。

 そんな忘れてしまった風景のひとつに、インドの山奥で見た夜の集落がある。バス移動の途中で過ぎ去る暗い夜道を見ていると、突然窓の外に巨大なマンションが現れた。こんなところにこんな巨大マンションがあるのかと息を飲んで凝視すると、それは山並みに建つそれぞれの家屋の灯りだった。

 その旅行での僕は無知な上に、事前に情報を入れないことをモットーとした徒手空拳旅行を志していた。そのおかげで旅程をスムーズに組めなかったり、行くべき観光地をほとんどスルーして過ごしてしまった。そんな中で得られた数少ない感動のひとつが、その疑似マンションの山影だったのだ。

 誤解とはいえ、世界最大スケールの巨大マンションを映像として観ているのだ。途中で山の集落だと気がついてしまうのだが、あれを誤解したままあの山を取り過ぎていたら、旅の途中で会った人に要らんことを吹きまくってしまったことだろう。でも、本当は誤解したまま過ぎてしまいたかった。

 人が見たいものしか見ないのだとしたら、あの景色は僕の脳が見せた幻想だと思う。ピントが合う前の目で見れば、この世界にはあの程度の感動的な風景がそこら中にありそうな気がする。でも、すぐにピントは合ってしまう。そんなピントはずれの幻想を求めて、山間部の工場地帯を見てしまう。

 この手の経験は、幽霊目撃談とも共有しうる誤解だと思われる。いわゆる目の錯覚というやつだ。たそがれ時の視覚が、昼と夜の合間を〈この世とあの世のはざま〉として詩的に捉えるのだろう。そして、幽霊の存在を肯定することによって、死後の世界に期待を寄せる心境があるのかもしれない。

f:id:SUZICOM:20210216132941j:plain

某北関東の、とある駅前の写真。色がなさ過ぎてモノクロのような質感あり。