熱弁、オバケいないから!

 形而上と形而下という言葉がある。目に見えない概念のようなことを形而上と言い、目に見えて物理的に存在することを形而下と言うそうだ。幽霊というのは、僕は「いない」と断言してしまうが、見たとか「いる」と断言する人々にとっては形而下の存在ということだろうか? 違う気がするが。

 小さい頃は「ハタチまで見なければ一生見ない」と言われた幽霊。確かに一度も見ていないから、この言葉はある意味では真実である。でも、そもそもいないものを「さもいるかのように」思わせる呪いの言葉でもある。いないものをいないと言っている僕の方が能力がないような表現ではないか。

 とは言え、不思議な出来事や怪奇現象に興味がないわけではない。それを頭ごなしに否定したいのではなく、ミステリーとして解明したい気持ちが湧いてくる。ただ、それを「霊的なもの」として捉えるのは無邪気すぎると思ってしまう。それでは目に見えないものが目に見えてしまうことになる。

 形而上のものとして「霊魂」を捉えるのは良いと思う。亡くなった親族のことを「見守ってくれる御仏」として心で念じるのは尊い魂だろう。それは個々人の「信心」というものだ。日本が無宗教の国とは言え、ぼんやりとした八百万の神の信仰があるのかもしれない。人の数だけ神がいても良い。

 僕は、今までに何度か「幽霊を見た」と断言する人間の話を聞かされたことがある。小さい頃は怖がりだったので、その頃に聞かされた話はすべて与太話と片付けることができる。でも、社会人になってから霊体験を話す人の場合、他人に話して白黒ハッキリさせたいという気持ちが大きいと思う。

 信じたくない気持ちと、それでも見てしまった現実に釈然としない心を両方持っていて、どちらかというと「見た」方に揺れているのだ。それを聞かされて、僕は幽霊がいないという事実だけを淡々と伝える。そうすると「でも、見たぞ」と強めに返される。それはもう、その人間の信心の問題だ。

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幽霊がいないからと言って、僕が形而上のものに無関心なわけではない。