続々・旅情は距離がものを言う

 一昨日から12年前のブラリひとり旅の模様をトレースしているが、途中まで思い出したので今日もその続き。とはいえ、日々の微細な心境の変化もあるので、思い出し方にも小さな差異がある。当初は気軽に出かける旅の楽しさ的なものを記そうと思ったのだけれど、今日はそんな気分ではない。

 とりあえず、浜松から名古屋へと出た僕は、ふと思い立って伊勢神宮を目指すことにした。この旅行に出て、初めて普通の観光地を目指したことになる。伊勢神宮の知識はほぼないが、池波正太郎先生の小説で読んだ記憶がある。江戸時代の丁稚奉公が、ふと思い立ってお伊勢さんを目指したとか。

 そんな丁稚どんの気分でお伊勢さんに向かった。ちなみに、この頃の僕のネット検索は携帯電話で行なっている。伊勢神宮への行き方も、ケータイのブラウザで調べる。定額制にしてなかったので、この時の使用料金が普段の数倍になったことは後で知る。でも、検索なしでは旅程が組めなかった。

 ここまで行く道のりがケータイ任せだったので記憶に残っていない。調べたら「伊勢市駅」が最寄駅のようだ。そこから伊勢神宮に向かったところ、ここには「内宮」と「外宮」というふたつの神宮があり、外宮から参るのがマナーだそうだ。伊勢市駅から歩いて行けるのは、ちょうどその外宮だ。

 よく分からないまま敷地内をウロウロしたが、信心の薄い僕でもこの神域の特異性のようなものを感じられた。神々しい場所として扱われてきた歴史の蓄積が、場の記憶として層を成しているような感覚、などと知ったような口を聞いてみる。シンプルに言うと空気がスーッと研ぎ澄まされている。

 外宮を出て、さて「次はどうしたものか」と思っている僕。通常なら内宮に向かうのだが、僕は迷っている。ここまでハイスピードに移動を重ねてきたせいで、スピード感が欲しくなってしまう。神社で緩んだ心を電車で急がせたいのだ。緩急への飢餓感が、僕を別の目的地へと向かわせる。続く。

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外宮しか行ってないが、伊勢神宮の敷地内は張り詰めた緊張感があった。