リメンバー、フォーゲット

 以前観た映画で、内容は覚えてないけれど面白かったような気がして、改めて借りて観ることがある。そこで、観ると「ああ、こんな感じだった」と頭で納得した時点で、新しい発見を探して観ることはない。ただ、惰性で流しているだけだ。だから、何度も観ているのに記憶されない映画がある。

 逆に、ほとんど内容を覚えているのに「また観たい」と思う映画に関しては、再発見することが多い。覚えているつもりの細部の設定が違ったり、印象的なセリフを言う人間が思っていた役者の逆(相手役)だったりすることがある。そういう発見も、後日には元の誤解に戻ってしまうことが多い。

 また、映像美として観たい映画というのもある。そういう作品は、内容はどうでもいい。いや、ちょうどいいどうでも良さがあるから映像美がすんなり受け取れるのだろう。ストーリーが面白くて、役者の演技にも引き込まれて、映像美が素晴らしいという「全部盛り」だと集中できない気がする。

 もちろん、全ての映画が映像にこだわっているだろう。だから、ここで言っているのは「僕が観たい映像」である。その映画を観れば絶対に拝める景色だとか、色彩だとか、構造物のことである。旅先で不意に出くわす絶景には大きな感動があるが、そのプロセスを無視していきなり観ちゃうのだ。

 そういう映像美を味わうための映画であっても、長年の記憶ストックが全て「映画」のフォルダに分類してしまうので、最近ではどの映画が「映像美映画」なのかも判別できなくなってきた。普通にストーリーが面白い映画の中にも、絶妙に「好きな風景」が組み込まれていたりするので侮れない。

 僕は他人の長所を探すのが好きなタイプだ。それは短所を見抜くのが早いとも言える。その短所で短絡的に相手を嫌うこともあるが、それが誤解である場合も多いので、なるべく長所も探すようになった。そういう性質が映画鑑賞にも作用しているので、僕が言う映像美も多分に個人の感覚である。