ずっと人見知りでいい

 大人が「人見知りなんで」などと言い訳するのは恥ずかしいことのような気がする。そう、言い訳が恥ずかしいのだ。社交性なんてものは後天的な性質に過ぎないのだから、元来人間は生まれつき人見知りのはずだ。それが生存本能で、簡単に言えば「知らない人について行っちゃいけない」のだ。

 それを、いつまでも引きずっているのが恥ずかしいと思うのかもしれないが、社交性が身についても根っこの人見知りが抜けないのは当然のような気がする。誰とでもすぐに打ち解けると言う人の「やり口」を見ていればわかるのだが、その行動は自然じゃない。どこか無理しているように感じる。

 社交性というのは無駄を省いているに過ぎないと思う。人見知りでも時間をかければ、他人と打ち解けることはできる。その時間を短縮するために初手で頑張ることが社交性だろう。ただ、頑張っている姿を見られたくないという気持ちがある。努力は影でするものだ。社交性と努力は相性が悪い。

 つまり、ぶっつけ本番でしか身につかない能力が社交性で、そういう場にたくさん立つことで磨かれると言っても良い。僕は、何度も場違いな会合に出ているうちに、そういう場に異物としていることには慣れた。そこで交わされる会話が「大したことない」ということも知った。でも、話せない。

 場に馴染むことで新発見がありそうだと思うのだが、馴染ませるときに生じる卑屈さに耐えられないことがある。できれば周囲で起こる興味深い会話の端緒を掴んで、スッとひと言挟んで輪に加わるのが理想だ。それが上手くいくこともあるのだが、大体は興味深い会話というものが見つからない。

 ここまで記したように、僕も社交性は極めて低いと思う。それでも友人が多いと思われているので、周囲には人見知りキャラが浸透していないようだ。僕の社交性を過大評価して結婚式での挨拶を頼む人間もいるくらいだから、他人から見た自分なんて想像できない。自己都合の誤差が生じている。

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社交性はいらない、1人で生きていくと思いつつ、肉を焼く時は大勢が良い。