凶暴と乱暴の鎮魂歌

 僕は表面穏やかな人間だと思うし、武張った逸話も持っていない。暴力に対して小さい頃から臆病なところがあり、中学生くらいになると自分が反抗期で暴れてしまうという妄想を持っていた。それは、その時期に放送されていたドラマ「積木くずし」を見て抱いた懸念だったが、杞憂に終わった。

 そんな穏やか至上主義の僕でも、多少イラっとすることはある。他人の良くない態度に対して、基本的に穏やかであろうとする僕は出足が遅れてしまう。だから、良くない態度のままスルーされてしまい、後で思い返してハラワタが煮えてくる。だが時すでに遅く、もう目の前に対象はいないのだ。

 でも、この時間差の怒りの発出には緩衝材の役割があると思う。ジャストで怒り慣れている人だったら、怒りの「その後」を経験しているので処理できると思う。これに慣れていない怒りバージンの人間は、一度振り上げた拳を上手く下ろせない。僕も直接他人に怒りをぶつけたら引けないだろう。

 四半世紀前にインド旅行した時に、現地のインド人で日本語を話せる男と交わした会話が印象的だった。その男と安宿のロビーで話していると、朝チェックアウトした日本人が戻ってきた。受付で朝受け取った釣り銭の紙幣を突き返して「交換しろ」と怒鳴っていた。その姿を僕と一緒に見ていた。

 確かにインドでは、ボロボロの紙幣はババ抜きのババみたいなもので、公共機関では使えないことが多かった。彼も電車のチケットが買えなかったから交換しに帰ってきたのだ。怒ったのはポーズだろう。交渉を早く済ませたかったんだと思う。でも、インド人の彼は別のことを思ったらしいのだ。

 彼いわく、その文句の言い方を喧嘩だと理解し、喧嘩は殺し合うことだと言った。ボロボロの紙幣程度のことで殺し合う必要があるのかと問うてきた。その言葉で僕は納得した。怒りをコントロールしたい時には「殺す覚悟があるのか」と自問すれば静まる。そんな覚悟を持たずに生きてゆきたい。

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インド旅行は楽しい思い出だけれど、話題の賞味期限はとっくに過ぎている。