エクスキューズ・ザ・ワールド
昨年からの世界的な状況のせいで、過去の話をするときにちょっとだけ注釈が必要になっている。これまで当たり前にできたことを「不謹慎」と言われないための口実だが、当たり前に対して言い訳するのが軽くストレスになる。誰に対する言い訳なのかを考えると、それは架空の正義に対してか?
配慮は大事だと思う。人前で難解なことを言って「解らない方が悪い」と言っても、その難解さはその個人が勉強して手に入れた知識だ。そういう抱え込んだ知識を披露しているだけなのだから、周りに理解してもらうための手ほどきは必須だ。配慮とはそういうもの。優しさと言い換えても良い。
でも、現状に対して言い訳してしまうことは、広義の配慮ではあっても「誰に対しての」と聞かれると不鮮明になる。これに関して自分も「配慮したほうが良いんだろうな」というぼんやりとした感覚でしか考えていない。この感覚は広義のコロナ禍だろう。この言葉、いまや大嫌いになっている。
マスクして行動することが増えたから、それが影響している部分もあるかもしれないが、非常に息苦しい世界になってしまった。今後も長く、感染配慮社会は続くような気がする。たぶん、マスクの息苦しさは物理的に解決されてくると思う。高性能なマスクが安価で販売されるようになるだろう。
ただ、あまりマスクが浸透してしまうと、犯罪が起こったときに人体を特定しにくくなるかもしれない。そこも、きっと先手を打って「マスクを透過する監視カメラ」か、逆に「カメラのレンズ越しだと透けるマスク」が開発されるだろう。我々はただ、それらを知らずに着けている善良なる民草。
現状が早く収束してほしいと思う反面、ポストコロナの時代を想像しておいた方が生きやすいかもしれない。あまり楽観的な想像は浮かんでこないが、時の流れは不可逆なので、新しい波に早く乗れた方が得るものは大きいだろう。そんな新しい波には死んでも乗りたくない自分も同居しているが。