喪失への淡い憧れ

 人はなかなかゼロにはなれない。持ち物や住むところや仕事など、それらが何もない状態になることは現状では考えられない。いや、このコロナ禍の現状では考えることはできる。でも実感は湧かない。自宅待機で仕事がジリ貧になって、いろんなことが「いよいよ」の状況に陥いる想像はできる。

 僕が完全に孤立して、仕事もカネもなく街に放り出されたら、何から始めればいいだろうか。とにかく「仕事を得よう」と考えられるだろうか。それ以前に公共の救いを求めてしまうだろう。役所に行って得られそうな施しがあるのか相談するだろう。その状況で、そこまで頭が回るかは疑問だが。

 とにかく、そうやってひとつひとつ得ていこうと思うだろう。もちろん、最初は気持ちが折れているから、折れた心が上向いてからの話だ。僕は根っから楽天的なので、その辺は変な自信がある。いざという時は生きていけるタイプだ。立ち直るのも早い。だから、早く自立することを願うだろう。

 何もかも失った(と想定した)僕が、少しずつ積み上げて、やっと狭いアパートの一室に落ち着けることができたら、もうそれで満足してしまいそうだ。仕事帰りに部屋で飲む缶ビールが至福の時、それは足るを知る生活の中での唯一の贅沢。シンプルに生きられる幸せがありそうな気がするのだ。

 笑える生活があれば、他には何もいらないという気がする。こんな自粛要請の世界でも、面白いことはある。面白くない世界では、はじめっから生きていたくない。自分で面白くできるうちは頑張るし、他人が面白いことを提供してくれるなら、受け手として享受する。でも、自分で面白くしたい。

 物質的に豊かだからって、満たされているわけではない。むしろ満たされない心を視覚的に満足させるために、物質で埋めるという心理的な作用はあるような気がする。時々「何もかも捨てたろ」と思ってしまうが、それは自暴自棄ではなく、シンプルな生活への憧れだ。まだ捨てられてはいない。

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田舎暮らしを求めるのも、結局はシンプルな生活への憧れだ。