痛い言葉を残せない

 時代とともに、直接会うことから手紙へ、手紙から電話へ、電話からメールへとコミュニケーションの方法が変わってきている。もちろん今でも直接人と会うし、数少ない機会だけれど手紙を出すこともある。あ、年賀状の準備をしなきゃ。ま、それは置いて、手法の選択肢が増えたということだ。

 メールからチャット形式のネットワークに移行しているが、そこは広義のメールと混同して良いのか迷うところだ。そこすらも使い分けているか、もしかしたらeメールをしばらく使っていない人もいるのかもしれない。自分がどんどん旧式になっている実感を持ちつつ、それでも付いていきたい。

 チャットはクイックレスポンスを強いられる気がするので、ちょっと考えさせられるような言葉のやり取りには向いてないのかもしれない。これが常識になっている人にとっては、そういう思考の時間的猶予が必要な内容でもクイックに答えているのかもしれない。もしくは、単に切り捨てるのか?

 業務連絡をラインで送ってくるというのは、もうすでに「非常識な若者あるある」ではないのかもしれない。社会が根負けして、いっそ便利使いしようという方向に行っている気がする。会社員じゃないので分からないが、部署ごとのグループラインを作ったりしているので、活用は進んでそうだ。

 ただ、文字交換が会話形式になれば、そのやりとりの中で感情がスパークすることもあるだろう。スピード重視のラリーの中で、思わず出た言い回しにイラッとすることもありそうだ。そこでちょっと注意するような文言を送ると、その履歴が残ってしまう。感情的な言葉を残されるのは不本意だ。

 若い人の発言で「ラインでコクる(告白するの意)」と言っているのを見ると、老婆心ながら「言葉を残すと後悔するぞ」と思ってしまう。若さと無軌道は同義語だから数多の後悔を置き去りにして走り抜けて良いのだが、僕は後悔を拾って生きてきたので、後悔上等な姿がただ羨ましいのだろう。

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お粥のランチプレート。平日のランチにビールを頼んだこと、後悔はない。