和の輪のなかで

 年齢とともに敏感になるというか、知っておいた方が後輩から「一目置かれそう」だと感じるのが古い物に対する知識であり、それを良いと思える感覚だ。器とか小物とか、そういったモノへの造詣を語ることで自分が「ニッポンの人」であると誇りたくなる。極小のナショナリズムかもしれない。

 20代の僕は池波正太郎先生にハマって、氏の時代小説ばかり読んでいた。でも、それは歴史を学びたいという姿勢ではない。ただ娯楽小説として面白かったのだ。そして、同世代の人間から見ると、時代モノを愛読する僕は歴史好きに見えるらしい。そんな誤解も計算して読んでいたフシはある。

 そういうのは背伸びなのだ。ちょっとだけ周りと違う自分になりたいという過剰な自意識が働いている。でも、ミイラ取りがミイラになるのは世の常で、カッコつけではじめたことが大好きになることは多い。その上、池波先生に関してはドラマを観てハマったので、面白いことは織り込み済みだ。

 現在、50歳が目の前に迫ってきて「和のものは良いな」と普通に思う時がある。お茶を飲む時も、茶の味だけじゃなくて器の質感を唇で味わうようになった。口触りの気持ち良さ、触覚が喜ぶ器というのはある。追求したいとは思わないが、何かひとつ「良いモノ」を持つのも良いかなとは思う。

 こういう感覚は自然に「来る」ものだと思うので、早く気付けば幸せとかいう話ではない。僕も、まだ「来たかもしれない」程度の微弱な手応えがあるだけだ。これが雪崩のように攻めてきて、僕に和傾化(日本的様式美への偏愛傾向を勝手に命名)を押し付けてきたら絶対に反発して洋傾化する。

 日本人の僕が日本的なものへ回帰するのは当たり前である。当たり前すぎて若い頃は反発してしまうのだ。ただ、年齢を重ねて素直になっただけで、改めて良さを再発見したわけじゃなく、諦めて認めただけなのだ。もっと素直になって和モノを掘れば良い。現代の名工の名器を手に入れれば良い。

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冬といえば「おでん」を欲するのも最近で、若い頃は特に好きじゃなかった。