ラウドの呪縛にとらわれて

 高校生の頃の僕を励ましてくれたのは、いつも聴いていたヘヴィメタルの楽曲たちだった。速くて、切れ味があって、激しくて、美メロ。そんなメタル(またはハードロックだが、ここではメタルに統一)が大好きだった。思春期的な小さな悩みを楽曲の情報量で覆い隠してくれる魔法のマントだ。

 当時は特に気にしていなかったのだが、僕は学校のマジョリティのような存在が苦手で、無意識に遠ざけてしまっていた。高校でマジョリティ側にいないってことは「非モテ宣言」と同義なので、当然のようにモテなかった。誰とでも仲良くしてはいたが、個別に遊びに行くことはあまりなかった。

 その高校が嫌いだとか、特に気に入らない人間がいて馴染めないということではなかった。僕の中の問題だ。僕が考える正義と、高校生がひと塊りになった時の気分というのが一致しなかった。大勢でいる時の意思決定が、誰かの個人的な意向ではなく「全体っぽい」という感覚を持っていたのだ。

 全体っぽいというのは、空気のようなものだ。あの頃「空気を読めよ」みたいな言葉はあったのだろうか。つまり、そういう空気だ。桐島が部活を辞める騒動を描いた小説よりもだいぶ前だが、それよりもうっすらとしたヒエラルキー。あの空気感を受け入れるかどうかで振り分けられた小世界だ。

 あの頃から僕は「選ばない」という選択肢をとる癖がついていた。何も気にしないでどちらにも行けるというのが自由だと信じていた。ただ、高校とはいえ主流派に歩調を揃えない人間は孤独だ。そんな極小な孤独の戦いのために、僕はメタルを主題歌にして戦闘態勢を取っていたのかもしれない。

 高校生は体力的にも充実しているので、内なる衝動をどうにも持て余す時がある。でも、メタルの曲は序盤のリフの繰り返しから、後半の畳み掛けるようなメロディの応酬で回収するカタルシスの世界だ。その美メロの快楽によって、叫びたくなるような衝動を音楽に同化させて処理していたのだ。