壁の耳はオレの耳

 学生時代に借りていたボロアパートは、当然のように壁が薄かった。2階建てで全6部屋のアパートだったが、住人とのコミュニケーションはほとんどなかった。ただ、僕の隣に越してきた新入生が挨拶に来たことがあり、その後で「ラグビー部に入れます?」と聞かれた。同じ大学の学生なのだ。

 隣に後輩がいるというのは、先輩ヅラし慣れている人間なら都合がいいのかもしれない。壁が薄いのですぐ呼び出せるし、家にいる間は買い物は全部任せられる。ただ、僕は別のことに気を取られていた。その隣人は、越して来て早々に濃厚な夜を過ごしていた。壁の向こうの気配は筒抜けなのだ。

 こいつと性生活を共有するのは嫌だなという思いが即座に湧いて来た。隣人との距離感は付かず離れずでいい。なので、ラグビー部への入部は「やめた方がいい」と断ってしまった。もちろん、当人が経験者で「ラグビーをやりたくて大学に入った」というなら考えるが、間違いなくそうではない。

 彼が言うには「部活をやっていると就職に有利」だと思ったということだ。先のことを考えているのは偉いね。僕は就職するためにラグビー部に入ったのではないので、就職活動は4年生の12月から始めた。シーズンが終わるまでは何もしなかった。それを後悔はしていないが、人には勧めない。

 とにかく、隣人は入学早々に彼女を作って部屋に連れ込み濃厚接触をはかるような「学生生活をエンジョイする」タイプの男子らしい。彼らに興味はないのだが、壁が薄いのでパターンが分かってしまう。彼も壁が薄いことはわかっているので音楽で誤魔化すのだ。そのBGMがいつも同じなのだ。

 カーペンターズの「シング」が流れると、それは始まる。音声だけではなく、動作音も意外と響くものだ。あまりリアルに聞こえすぎて気色悪い時は、壁を思い切り蹴飛ばすことで黙らせた。思春期の少年のやり方。ただ、効果は大きい。全6部屋が揺れるので、他の部屋の住人には申し訳ないが。

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青春時代を過ごす部屋は川沿いで、土手から夕焼けが見えるべき(理想)。