イマジネーションネイション

 小説には好みがある。自分の好きなジャンルだけを読もうとは思わないけれど、苦手な文体というのはある。文体というより、書かれている内容だ。夢と現実が曖昧になった人の描写だけを長く読まされるのは苦痛だ。作家の妄想を延々と読まされるのも、それが笑える雰囲気でないと面白くない。

 ひたすら妄想が積み重なっていく話が、ストンと腑に落ちるラストを迎えることはない。支離滅裂に終わる、破滅型だ。その表現の仕方を評して、時として「文学的」などと語られる。だから、読書を小さな趣味にしてからも文学的なものには手を出しにくい。なんとなく、最後は死ぬイメージだ。

 この辺の分類にはわかり易い指標がある。それは「直木賞」と「芥川賞」だ。直木賞は大衆小説を対象にしており、僕の興味ある小説はこの賞の受賞作品に多い。芥川賞は純文学を対象としているので、まさに僕の苦手とする文体のものを包括していると言える。まあ、すべてに例外はあるのだが。

 パンクロッカーの町田町蔵という人がいる。この人は小説家となり、名を「町田康」と改めた。そして、芥川賞を受賞した。町田康の小説は、主人公が妄想に取り憑かれて暴走するものが多い。それは、主人公的には正義の執行であるが、そのごく個人的な正義によって社会から逸脱して行くのだ。

 これは、まさに冒頭に上げた「僕の苦手」とする妄想小説の手合いだと思われるかもしれない。でも、僕は町田康の小説を苦手だと思ったことはない。この人の小説の中で暴れる主人公は、作家である町田康の創作物ではあるが、その主人公の妄想は作品の中の必然として描かれているからだろう。

 こんなことを記しているのは、いま僕が芥川賞を受賞した作家の短編集を読んで苦戦しているからだろう。僕は、初めて読む作家は短編集を選ぶことが多い。そして、短編集はハズすことが多い。やはり長編で味わわないと良さは出ないのだろう。長編なら妄想に必然を感じられるのかもしれない。

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都内で飲んで、酔い覚ましに街角で休んでいると、一瞬逸脱したくなる。