余白で優しくなる

 仕事がパンパンに詰まっている時は、忙しくて周りに配慮できなくなってしまう。ヒマで今後が不安な時も、周りよりも自分の心配に終始してしまう。この年齢になると、ある程度の余裕が欲しいものだ。仕事の進行も、経済的な蓄えにしても、ゆとりが欲しい。逆ゆとり世代とでも言っておこう。

 まだバリバリ働く年代に属してはいると思うのだが、生来ひとりでガリガリ亡者よろしく突っ走るタイプではない。ある時期だけ突っ走って貯蓄をして、将来を悠々自適に暮らすという発想もない。常に正気を保っていたいということかもしれないが、それで余裕を無くしていたら本末転倒である。

 あまり深く考えない方が良いのだが、考えて動く(または動かない)のが自分の常態だ。その点、スポーツをしている時は思考の呪縛から逃れられる。もちろんスポーツ中も考えながら動くので、まったくの「無心」というわけじゃない。でも、場面場面で集中しているので「一心不乱」ではある。

 あと、スポーツの試合中は優しくなる必要がない。僕が特別に厳しいわけじゃないけれど、デレデレと甘い顔してスポーツに取り組む人間をあまり見ない。日常で真面目に事に臨んでいると、足を引っ張るヤツが「真面目か?」などと揶揄してくる。堂々と真面目でいられるのもスポーツの利点だ。

 ただ、コチラが仕事中に「真面目か?」とからかわれたなら「仕事中に真面目で何が悪い」と正論バリアで跳ね返すことはできる。でも、そういう茶化し屋に限って間が良い。絶妙なタイミングで、誰もが真面目な人間を笑っちゃうようなイジり方をされる。そんな時は仕方なく寛容なフリをする。

 何事にも考え過ぎて、結局なにも選ばないということが多い。真面目ではある。でも、面白い人生を過ごしたいとも思っている。僕の中で真面目と面白は何ら矛盾しない。その違和感で生きにくいということもない。ただ現在、50歳を目前にした岐路に立って、深い思考の闇に囚われかけている。