オイスターナイトグラマー

 昨夜、よく行く店で飲んでいたら、常連客からの差し入れで岩ガキをご馳走になった。産地直送の新鮮で巨大な岩ガキは、かつてない食べ応えと旨味で大満足した。いつも生牡蠣を食べると「食い足りねえな」と思うのだが、ひとつで充分な量と旨味を堪能できる。旨味の致死量というくらい旨い。

 子供の頃は牡蠣が大嫌いだったが、それは総菜屋の牡蠣フライが美味しくなかったからだ。今でも美味しくない牡蠣には、あの時感じたエグみのようなものがある。でも、すでに牡蠣を美味しいと感じる舌の持ち主になってしまったので、エグみの向こう側に旨味も見つけられるので美味しく頂く。

 ちなみに、ここ数年で頻度が増した「向こう側」という表現のルーツは山口百恵の曲だろうか。彼女のラストソングとなった「さよならの向こう側」のことだ。いかにも名曲然とした大作で好きになれないが、聴くとある種の情感が揺さぶられる。昭和の1ページが確実に閉じられたような感覚だ。

 そういう深みを持った言葉として「向こう側」を利用しているのだ。僕も、旨味表現を重厚にしたくて拝借したのだが、確かに牡蠣の旨味というのは複雑なものだ。いや、僕がこれまで食べてきた牡蠣の旨味には、多少のエグみも含まれていたと思う。それらの牡蠣にとって旨味は探すものだった。

 だがしかし、昨夜の岩ガキはさにあらず。大ぶりな身の中に旨味しか詰まっていない。よく「海のミルク」などと呼ばれているのを聞くが、まさにミルクのように溢れるほんのりとした甘さを感じた。海産物には少なからず「海味」を感じるものであるが、そんな海の雑味のようなものが一切ない。

 これほど素材単体で旨い食べ物は他にないかもしれない。調理したり加工したりすれば旨くなる食べ物はたくさんある。でも、牡蠣は海の中ですでに調理済でもあるかのように、その外殻を剥いた瞬間すでに旨いのだ。食べた瞬間に「これは毎日食べるものではない」と感じる罪悪感強めな食材だ。