せいぜい起承転結の「承」

 同じ話をいろんなところで何度もするので、この、はじめて半年しか経っていないブログの中でもすでに内容の重複は起こっていることだろう。同じ脳みそが日々の雑感を綴っているだけなので、少ないネタ元から引っ張り出している分、情報は薄い。できるだけ嘘は避けているので、余計に薄い。

 話を面白くするために「盛る」というのが、人の興味を引く会話術のテクとしてあると思う。僕も、学生時代から「オチがない話をダラダラするな」と関西方面の同級生に指摘されたものだ。でも、自分の話がオチに向かって手順通りに進んでいくのを冷静に見ながら話すなんて、僕にはできない。

 たぶん、話している途中で恥ずかしくなってしまう。オチのない同じ話なら何度でもするのに、オチのある練った話になると無性に恥ずかしくなってしまう。話を準備しているというところが笑ってしまうのだ。こちらは話芸の人ではないから、芸人のマネのような話し方が猛烈に恥ずかしいのだ。

 好みの問題なのだが、僕はむかしから脱力系の笑いが好きだ。日常の馬鹿馬鹿しい出来事を、でも「たまにやっちゃうよね」と思いながら半笑いで見ている。そういう馬鹿馬鹿しさのプロセスを見て、あそこで小さいミスをするから最終的にああなるんだとヒモ解いたりするのが面白かったりする。

 傍観者や第三者的な目線は、考えようによっては神の目線だ。観察される側からしたら不愉快な行為かもしれない。勝手に見ておいて、それを馬鹿馬鹿しいだなんて評価されたくない。でも、僕が観察するような対象が自分の権利を主張することはないと思う。それは、絶対に当人にバレないから。

 これは、僕が観察したと言っているだけで、それこそ盛っていると捕らえられてもおかしくはない。そういう観察は、僕個人の脳内で密やかに行われている行為だ。誰かと連れ立って「人間観察に行こうぜ」などと呼びかけるような趣味はない。たまたま目に入って、目が離せなくなるだけなのだ。

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こんな広場で人間ウォッチングする。都内では有名人を見つけても無視。