みんな真面目で構わない

 たまに、普通に行動していることを「真面目だなぁ」などと茶化されることがある。無視するか、不審そうな顔で言った相手を見るくらいしかできないが、その場合の正解がわからない。聞き返せば、だから「そういうところが真面目なんだよ」と混ぜっ返されそうだ。腑に落ちないことばかりだ。

 世の中は「適当でいい」ところがある。その適当は、良い加減というヤツと近い感覚だろう。ビタッと合うような詰め方ではなく、多少の遊びがあっても大丈夫な場合の表現だと思う。でも、ビタッと合わせないと計算が狂うような場合は、適当や良い加減じゃなく、シビアな実作業が求められる。

 僕の普通は世の中とそれほどずれているとは思えないが、指摘される感じからすると多少真面目側に寄っているのだろう。でも、それは世界の両極が真面目と不真面目に別れていて、誰もがどちらかに振れていると判断する考え方だ。そんな堅っ苦しい考え方こそ、まさに「真面目か」という話だ。

 いつから真面目というのが、他人を揶揄する言葉になったのだろう。お笑い芸人の常套句的なツッコミに「真面目か」というのがある。それは、芸としてボケるべき人間が当たり前のことを言った時の「スカし」に対するツッコミだ。別に、世界中の人間が不真面目であると前提した言葉ではない。

 おそらく、かなり古くから真面目というのは茶化されていたように思うのだ。古代の人間は、現代よりも刹那的に生きてきたと思う。サムライの文化なんかでも、武士道は「死ぬことと見つけたり」などと言って散り際を考えていたように思える。死が近い分刹那的で、生きることに真面目なのだ。

 真面目に今を生きている分、日常の些事にチマチマと関わり合っていると煩わしくて「やってられるか」となるのは分かる。それは、その時代の性分だ。現代のものではない。では、いま現在僕が言われる「真面目だなぁ」はどこから来るのか? それは、小さな日常のマウンティングなのである。

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川の水面が、真面目に赤い橋を反射させているなんて誰も言わない。