通りすがりのナイトソングス

 かつて幽霊を信じていた頃は、周りの友人を困らせるくらいの怖がりだった。受験勉強と称して仲間の家で夜に集まっていた時、誰かが怖い話を始めたりする。聞かなきゃいいのだけれど、狭い部屋なので聞こえる。そして、怖すぎて「ひとりじゃ帰れない」ので、そこにいた全員を付き合わせた。

 今では、怪談話的な幽霊という存在は怖くない。それは脳が見せた錯覚だと説明できるような気がするし、説明しなくても「見間違え」で片付けてしまう。つまらない大人になったものだ。でも、誰かが怖い話をするたびに、ひとりで帰れなくなるよりはマシだ。それはシンプルに成長と呼びたい。

 そんな僕でも、幽霊の存在を半信半疑ながら「いるかも」と思っていた過渡期がある。頻繁に金縛りにあい、学校帰りのバスの中から外を見ると不気味な人影を目撃したりしていた頃だ。それは、僕の精神状態が不安定だっただけである。部活人間が社会に出るという漠然とした不安があったのだ。

 金縛りは、体は寝ているのに脳だけ覚醒している状態だ。部活で疲れているのだが、上級生になると疲れに慣れてくるので「疲れ足りない」のかもしれない。そして、目前に迫った社会生活への不安は、日々の部活で遠くに押しやってしまうのだ。ただ、脳の片隅に、その不安はずっと潜んでいる。

 つまり、常時ちょっと暗めの思考が脳に影をさしているのだ。それで、バスから窓の外を見ると、夜の道は暗くて見通せない。そこに人がいて、対向車のライトが光って、その瞬間いたはずのその人が通り過ぎるヘッドライトの流れのように白く伸びて消えてしまった。それを怪奇現象だと思った。

 よく考えれば当たり前のことだ。一瞬で通り過ぎたら、歩行者はそのように流れて消えて行く。多分、その日は雨も降っていた。窓ガラスに付いた雨粒に反射して白く伸びたように見えたのだろう。でも、現実の不安よりも非現実の怪奇に慄いている方が平和だと判断したのだ。それは逃避なのだ。