気まぐれ電車で行く

 どこかに電車で行く時は、文庫本と音楽が欠かせないアイテムだ。本は、最悪出先で手に入れれば良いのだが、音楽はそう気軽には入手できない。再生装置が使わなくなったアイフォーンなので、その中に入っている曲しか聴けないのだが、それだけでも十分に周囲との結界は張れる。それが重要。

 本を読んでいる時の周りの声や車内アナウンスは、現実に引き戻す。移動中に創作の世界に没頭するのも如何なものかと思いはするが、小説を読む意味はそれしかない。描かれた世界を俯瞰で見るにしても、その世界の中には入ることになる。僕の読書の楽しさは、そんな風に没頭することにある。

 ただ、没頭していると降りるべき駅を過ぎる可能性もある。昨日の目的地は、途中で2回の乗り換えが必要な場所だった。厳密に言えば、同じ路線上で2回乗り継ぐという。つまり、3回も終点近くまで乗らなきゃいけない。乗り換えるたびに、今の時期だと気温が下がっていくように感じるのだ。

 駅に着くたびに、目の端で駅名標を探している。その行為のたびに小説世界から現実世界に戻ることになる。でも、その程度の客観性はいつでも持っている。ひとつのことしかやってないように見えても、頭の中では全然異なる思考が広がっていることもある。それは、集中力が散漫だとも言える。

 昨日は最寄駅で電車に乗る段階で遅延が発生していた。僕は時間に正確な日本の電車は偉いと思うけれど、この程度の遅延は普段なら全然気にならない。ただ、後々の乗り継ぎの時間がタイト目なので、そこで「待ってくれてるのかな」という疑問というか、小さな不安を感じたことは間違いない。

 結論から言えば、先の駅で電車はちゃんと待っていた。それは、乗り換える人数と、最初から乗っていた人数を見れば分かる理屈だ。圧倒的に乗り換えた人数の方が多いので、その電車が我々の乗ってきた便を待っていたことは多数決的な正義なのだ。こういう乗り継ぎの融通が利くところは好き。