時空を超えて捕物帖

 時代劇を見ていて、または読んでいて、日本人の心のようなものを感じる時がある。こういう心意気は日本的だよな、なんて思ったりする。でも、果たしてそれは日本的なのかと疑問に思ってしまうのだ。それを書いているのは、例えば池波正太郎先生ならば、それは池波先生の日本的心だと思う。

 だから、時代劇を読むということは、その作家をどこまで「信用するか」にかかってくる。池波先生のことは信用している。だから、その人が描いた江戸時代の「鬼平犯科帳」や「剣客商売」のことも手放しで楽しめる。楽しめるけれど、果たしてそれが歴史的真実であるかはあまり重視してない。

 過去に遡って歴史を見ることは絶対にできないので、その時代に書かれたもので検証するしかないのである。でも、歴史は為政者の都合で書き換えられるということが言われているので、僕が習った歴史が真実だとは限らないのである。しかも、僕が習ったのは30年前の通説に過ぎないのである。

 その不可逆性、絶対に検証しきれない部分を巧みに扱えば、歴史小説はとても面白くなるような気がする。世界史の中には、その時代の科学ではありえない建造物が遺っていたりする。ピラミッドなど、映像で見るたびに作るの大変そうだなと思ってしまう。どう考えてもクレーンは必要だろうと。

 日本の古墳は、なぜかピンとこない。あれは近くで見ると、単なる公園にしか見えなかったりする。ドローンなど、空撮で見ると全体像が把握できるが、ライブ感のある実感ができないのだ。その場に行って、自分の手でドローンを飛ばして見たとしても、画面の中の感じは拭えないだろうと思う。

 戦国時代の人物を格闘技のスター選手のように例えるなら、僕はダントツで武田信玄が好きだ。でも、それは「真田太平記」で描かれた信玄が圧倒的なボス感を備えていたからだ。しかも、本編の中ではすでに死んでいる状態だ。時代小説の中でも、歴史上の人物として語られる偉大さがあるのだ。

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若松城天守からの眺め。城から下界を眺めると天下を取った気になる?