あれは言っておけば良かった

 いつの間にか浸透しているクレーマーという言葉。むかしから文句言いたがりみたいな人はいたが、それとはひと味違うらしい。どうやらクレーマーには特典が付いてくるようだ。文句を言うことで優遇される制度って異常だと思うが、この国の事なかれ主義が産んだモンスターなのかもしれない。

 いわゆる〈バカの言い得〉なのだが、それを指摘してヤメロとは言えないものらしい。たぶん大多数の人間はクレームなんて言わない。たまにバカの被害者になっても笑って済ますか、無視するか、ヒドいときは酒場で愚痴るなどして忘れる。サイレントマジョリティはガマン強くて理性的なのだ。

 そういうガマンする習性が身に付き過ぎてしまい、本当なら指摘すべきミスをスルーして済ませてしまうことも多々ある。僕の記憶でイチバン古いところだと、子供の頃の予防接種でそれは起こった。学校で一斉に打つ注射で、複数の医者の前に大行列ができている。僕の担当はお爺ちゃん先生だ。

 打ち終わった生徒に「痛かった?」と聞くのが定番のあいさつだが、お爺ちゃん先生の列は泣いている子が多いような気がする。やはり個人差があるのだ。僕は注射で泣いたことはないが、痛くなかったこともない。いつも何かをグッと堪える。大人になって採血する時も、平気なツラして耐える。

 そのお爺ちゃん先生の前に僕が立ち、腕を消毒されたあと、いざ打たんという段階でお爺ちゃん先生がクシャミをした。その勢いでプツッとひと刺し入ったのだが、元に戻って同じ注射を普通にブッ刺してきた。さすがに「えっ、良いの?」と目顔で訴えたが、お爺ちゃん、頑として目を合わさず。

 まあ、予防接種としての用は足りたのだろうけれど、何も言わずにスルーというところがいかにもズルい。もちろん子供の僕は、そのことを列の生徒に言いふらして戻るのだが、次の年もお爺ちゃん先生は来ていたので現場の声はどこにも届かなかったのだろう。でも、適当で雑で良い時代だった。