狭小空間でエマージェンシー

 学生時代、イチバン嫌いだったのは集会だ。全校生徒を体育館やグランドに集め、つまらない話を聞かせるアレだ。暑い日の集会で生徒がバタバタ倒れても、淡々と進行される不気味さ。あの手の集会は、その後の人生では成人式が最後だろうか。でも、成人式は座れるし、参加自由なので違うか。

 集会的な要素というか、コチラの自由のきかない状態で密集で待機させられる経験としては、電車のトラブルで駅に人が溢れた状態が近いかもしれない。あの状態は想像しただけで気持ち悪くなるが、あれでもパニックにならずに待てるのは、集会の時の不本意な我慢が効いているのかもしれない。

 あと、スポーツ観戦やライブなど、イベント会場からの退場時にはどうしても人が溢れてしまう。その時に、気持ちをゆったりと保って、焦らずにジリジリ出口に向かえるのも集会の鍛錬による成果か。とはいえ、そんな場ではいつでも、あの集会の時のように不本意な我慢だと感じているのだが。

 僕はむかしから背が高かったので、集会では最後尾に立っている。最後尾の後ろには教員がいるので、態度が悪いと注意される。集会が長くなってくると姿勢を頻繁に変えるので、そうすると「動くな」と注意される。ビシッと止まってろというのだが、その不自由さが余計に集会を嫌いにさせた。

 高校になると、集会は体育館で行われるようになった。体育館の場合、長くなる集会は座れる。座れるから良いというわけではない。長い集会はそれだけで不愉快だ。そして夏場の体育館は暑い。だから、汗をぬぐっていると体育暴力(注)に注意される。そこでも動くなと言うのだ。意味不明だ。

 そんな不愉快な記憶しかない集会だが、最高のパフォーマンスを見せてくれた友達がいた。集会中にオナラがしたくなった彼は、匂いを拡散させないよう、バレーボールのネットを張るポールの土台の穴に密封しようとした。その穴にアナを当て、放屁したところ、巨大な屁音が周辺に響き渡った。

(注)体育暴力とは、暴力でしか生徒とコミュケーションを取れない、当時の一部の体育教師のことを僕が勝手にそう呼んでいる。その行為が嫌いだからこう呼んでいるのだが、僕自身は、体育暴力の被害に遭ったことはない。そして、当時の被害者たちに話を聞くと、ほとんどの人間が恨んでない。

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ライブは最高の時間だが、そこから帰ることを考えると憂鬱になってしまう。