それはカルシウム

 人との会話で、共通認識があるかどうかで話し方が変わる場合がある。ことによっては、その点を認識していない人には「話しても無駄」と判断される場合もある。僕は、なるべくいろんな人から話を、できれば面白い話を聞きたいと思うので、共通認識がなくてもあるフリをする時がたまにある。

 人が大ケガをした話は、興味本位に根掘り葉掘り聞いてしまう。現在は完治しているのであれば、どれだけ聞いても割と話してくれる。でも、そのケガがキッカケで転落人生になった人にはあまり聞けない。僕も、そういう意味ではケガによって人生を、数ミリ単位では踏み外しているように思う。

 僕のケガはヒザの靭帯断裂という、ラグビー選手にはよく見られる部位の損傷だ。もともとケガの少ない僕が、これを断裂して以降はケガばかりしている。もちろん日常生活でケガするわけじゃない。ラグビーの試合に出て、試合の序盤で肉離れして戦線離脱するようなことだ。それが嫌で辞めた。

 そのケガが自分にとっては大きなものであったのだが、人に説明すると大したケガではない。入院して手術するようなことではないし、しても治らないからだ。いや、靭帯再建という手術をすれば整復はできるのだが、医師は消極的だった。何人かに聞くと「プロでもあるまいし」とのことだった。

 どこからが大ケガの分類になるのかというと、骨折だろう。靭帯は断裂しても歩ける。でも、骨折は見るからにケガだ。自分のケガの履歴には骨折はない。本当は鼻の骨が曲がったことがあるのだが、アレは軟骨だから骨折とは言わないのだろう。鼻が曲がるのも、ラグビー選手あるあると言える。

 周りの人の骨折の話や、骨折で入院した友達の見舞いなどを通じて、僕の中にも骨折が入っている。傍観者としての履歴が、いつの間にか自分の経験としての骨折になりかけている。だから、たまに骨折の経験の有無を聞かれると「あれ、あったかな?」と考える無駄な思考回路が形成されている。