年賀状出したら、もう正月

 昨日までの世の中は、クリスマス商戦の只中。街のデコレーションは緑と赤と金色で、クリスマスツリーを模した配色で飾られている。恋人たちのためだけの季節、時々子供向け。そんな時期に、年賀状を元旦に届けるための期限は設定されている。そして、その期限を律儀に守る男がいる。僕だ。

 年賀状は、そのハガキの図案からしてすでに正月気分だ。それほど多くはないのだが、毎年自分でデザインして出している。本当は、モノクロ写真に読みにくい欧文フォントでハッピーニューイヤーと記して、シンプルでかっこいい感じに仕上げたいと思う。でも、いざ作るとポップで軽薄なのだ。

 それは、正月からかっこつけたハガキで気取りのマウントを取ってくるヤツだと思われたくないから。結局、僕は「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」という早川義夫の言葉に呪われている。いつまで経っても自分がやりたいようにかっこつけられない。だって、それはかっこ悪いから。

 クリスマスを斜に構えて見てしまう姿勢も、かっこ悪いと思うようになった。恋人がいないとか、大人がハシャぐもんじゃないとか、日本人は仏教徒だとか(それは人それぞれだが)言い訳して、クリスマスのノリに合わせられない。そんな人生を半世紀近く過ごしてきて、ほとほと嫌気が差した。

 何年か前から、クリスマスに流れまくるマライア・キャリーの曲がすごく好きになった。ラジオDJが「次の曲は『クリスマスに欲しいものはあなた』です」とタイトルを意訳して曲紹介したのだ。その瞬間、あんなに嫌いだった曲がものすごく健気な女の子のように愛おしくなってしまったのだ。

 小さい頃から天邪鬼なところのある僕だけれど、最近はひねくれ者の言葉を素直に笑えないのだ。斜め上の発想も、単なる「知のマウント」のように感じてしまう。人生の後半戦に突入して、やっと王道の偉大さに気づいたのだろうか。でも、複数の視点を持ちたいので天邪鬼は継続するのだろう。

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ミートソースをボロネーゼと呼ぶことにいちいち引っかかったりしないぜ。