意気地なしの青春挽歌

 空気を読むことは大切なのだけれど、読んだ空気に乗るか反るかは自分次第だ。スポーツなどでも、その場の空気を自分のものにしているプレイヤーの独壇場になっている時には、カウンターを打たなければいけない。空気の流れを変えるには、流れを読んだ上での逆張りが有効なんだと思うのだ。

 単純に奇策を打っても、強い場の流れには影響を及ぼせないと思う。それよりも、今ある流れに小さな変化を加えたほうが、場の支配者の機嫌を悪くさせられるのだ。流れの主体の調子が崩れれば、自然に空気が変わってくるというもの。その潮目を読み取り、次の奇策へと移るのが有効的だろう。

 よく、スポーツの試合では「場に飲まれる」という状態がある。チームで戦う球技でも、相手が乗って攻めて来る時にコチラが脇役に感じられてしまうような場面がある。それは周りの仲間の心が折れていく様子を見ていて、仲間に失望するところからはじまる。つまり、気持ちで負けてるわけだ。

 攻められている場面で、ここを凌いで攻め返そうと気持ちを鼓舞するために声をかけたりする。その声に対する反応が、機械的なものだったりすると急速に冷めてしまう。自分が「耐えよう」と気を張っていたのに、返って来た声は条件反射でノドから出た生返事なのだから、ガッカリしてしまう。

 学生時代には必ず「どうせやっても勝てないんだから適当にやろうぜ」と低い方へと誘う仲間はいたものだ。そういう悪魔の囁きに耳を貸さずに生きるには、強い意思を必要とする。学校というハコ全体が冷めたムードの時代だったので、熱くなること自体をバカにする風潮がむかしはあったのだ。

 そういう負け犬根性に支配された空間を変えるためには、主役を立てなければいけない。誰かが空気を読まずに、熱く立ち上がらなければいけないのだ。それを「お前がやれよ」と人に押し付け、結局誰もやらずに終わった青春時代だったように思われる。みんな熱くなれずに終わった青春だった。

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錆びた鉄扉の中を想像するのが好き。そこにあの頃の熱い気持ちが埋葬されている。