言葉の賞味期限は短い

 誰かとの会話の中で、悩みや現存する問題に対する意見を求められることがある。その場で考えて「妙案」のような答えを出せたなら、回答者としては満足できる。でも、問題を提起した人が、果たしてそれを額面通りに受け取ってくれるのかは疑問だ。例えその場では納得したとしても、だ。

 キレ味の良い意見やナナメ上な回答は、少し置くと曲解されやすい面もあると思う。その会話が終わり、家に帰る道すがら、意見を受け取った人はいろいろ考えるだろう。相手のいないところで考えはじめると、悪い方へと転がる場合もある。時には「あの意見、何様だよ」と感じたりもする。

 そんな相手の負の感情を考慮して、上っ面の会話しかしない場合もある。それは、話し相手の精神状態が「安定してないかな」と思える場合など。暗く沈んだ人の告白などは、そこにどんな意見を挟んでもネガティブに解釈する。自分の言葉でさらに落ち込ませるくらいなら、聞き役に徹する。

 逆に、アッパーでテンション高くまくし立ててくる人にも注意が必要。その人は、自分の外側に向かって「ご意見無用」である旨を表明しているからだ。それは、自分が打たれ弱いことの表明でもあるし、他人の意見に左右されやすいから遮断しているようにも見える。つまり、防御策なのだ。

 自分に置き換えて考えると、僕は他人の意見を聞いても自分の判断は変わらない。ただ、その意見で考えるなら「こうだな」と納得できたら、それをこねくり回すことは、あまりない。そして、納得する状態まで行ってしまうとストレスがなくなるので、その意見ごと忘れてしまうことが多い。

 自分を理解してもらいたい相手に対しては、曲解する時間を取らせないくらいのスパンで話せれば上手に伝えられると思う。でも、大人の多忙な時間の中で、すべての人に誤解なく自分を伝えることは難しい。だから、誤解を恐れずに、と言うよりは諦めて人と関わることが多くなってしまう。