路上のツームストーン

 学生の頃、クルマに乗っている時に、路上に動物の死骸を見つけて「あ、可哀想」的なことを呟いたところ、同乗者に「死骸に同情すると取り憑かれるよ」と言われたことがある。それ以降、運転中に轢かれた動物を見つけても、何も感じないように心を閉ざしていた。取り憑かれたくないからだ。

 だが、そんなのは妄言だ。もはや誰が言ったのかも分からないスピリチュアル戯言に振り回されて、心を閉ざす必要はない。運転中に動物の礫死体を見つけたら、普通に「可哀想に、安らかに眠れ」的な気持ちを持ちたいし、そんな感じで通り過ぎるようになった。それでも取り憑かれてはいない。

 別に僕は、路上で轢かれる動物に対して、人間を代表して「文明の進化の犠牲者に哀悼の意を表する」などと思っているわけじゃない。単なる条件反射で可哀相だと感じるだけだ。そんな普通の感情に対して、あの時の謎の誰かは何故「取り憑かれる」などと言ったのか。いま考えると怖い言葉だ。

 それはきっと、まだ僕が幽霊を怖がっていた頃だから、それを知っている人間がからかうつもりで言ったのかもしれない。そんな心無い言葉に縛られて、何年も変な呪いにかかっていたわけだ。腹立たしい上に情けない。この気持ちをぶつけるべき相手の顔も分からない。だから、忘れるしかない。

 ちなみに僕が幽霊というフィクションの呪縛から解かれたのは、奇しくも京極夏彦京極堂シリーズを読み始めた頃だ。作中の人物が「この世には不思議なことなど何もない」という言葉で気が晴れたのだ。逆に京極堂の言葉の呪いにかかったとも言えるが、こっちの呪いなら無害なので構わない。

 そうやって闇抜けしたつもりだったが、不意に路上の死骸を見つけると、条件反射的に心を閉ざすことがある。先に可哀相が来るときもあるが、無きものとして素通りすることもある。先ほど、ジョギングの途中で路上に鳩の死骸を見つけた時も、つい無心になっていた。気に病むことではないが。

狭い道でクルマに轢かれそうになり、つい睨みつけてしまうクセを直したい。

雨音しとしと巣篭もり中年

 僕の生活サイクルと無縁とは言え、連休中は酒場の営業時間が変わったりするので楽しさはある。昼飲みできるのだ。ハッキリ言って普段の平日でも飲めるし、出先のランチでビールを頼むことも当然ある。ただ、罪悪感のようなものを感じることなく、明るいうちから飲める開放感は格別である。

 今日も昼から出かけようと思っていたが、雨が僕の判断を鈍らせて外出は諦めた。日曜日は怠惰デイにしよう。迷わず、何もしない日として過ごそう。そんな感じですでに夕方、夜も出かける気はない。酒場の店主に「また明日」とか言ったような気がするが、酔っ払いの戯言と忘れているだろう。

 こんな日は家で映画でも観たいところだが、配信サービスとかに加入していないので実物をレンタルしないといけない。世の中がサブスク中心の世界になって以来、なんとなくレンタルビデオというのは時代錯誤なものという感がある。そうやって足が遠のいてしまい、映画をまったく観ていない。

 僕はミーハーでいたいと思っている反面、エンタメ系の趣味はむかしから変わらない。意固地にこだわっているという熱心さはなく、単に冒険をしないだけである。だから、借りる映画の方向性も偏っている。過度に趣味的なものというわけではなく、面白いと思った監督の作品しか借りないのだ。

 思い返せば、僕が映画を借りなくなったタイミングはウディ・アレンがハリウッドからパージされて以降だと思う。好きな監督の新作が出ないので、必然的に興味が薄れてしまった。先に記した通り熱心さがないので、その後の続報も追っていない。頼りはツイッターのタイムライン情報くらいだ。

 雨の日に映画を観るなら、どんな作品が良いか考えてみよう。外が暗いのでサスペンスホラー的なものが良いか。サスペンスホラーという文字列から想像できる作品は「セブン」しかない。ウディ・アレン関係ないやんという西からの声が聞こえてきそうだが、いま思い出せる映画はコレしかない。

セブンのラストシーンをオマージュして、日本の送電塔の写真を貼っておく。

ジョークの気分じゃないけれど

 見た目には明るく見えても、実際には悲しみを抱えているというのが、人間がもっとも重厚に見える瞬間だと思う。我慢して明るく振る舞っているという単純なことじゃなく、どんなに性格的に陽性だったとしても耐えられない不幸があって、それでも笑っていなければいけないというのがエモい。

 逆に、悲劇的な状況の人でも、絶妙なタイミングのオナラを聞いてクスッと笑うことはあると思う。そうやって笑って、我に返って、まだ大丈夫だと思えることもあるんじゃないだろうか。僕のように絶望を知らない脳天気な人間には分からないことだが、でも、笑って救われることはあると思う。

 僕が子供の頃に観た映画で、ビートたけし主演の「哀しい気分でジョーク」という映画があった。このタイトルが秀逸だなと思っている。主人公が芸人の役で、私生活での哀しみを見せずに、表舞台でジョークを言っている姿を表している。映画の内容は覚えていないが、忘れられないタイトルだ。

 日本の徳川時代独裁国家だったわけだが、その頃の人々だって笑っていたはずだ。どう考えても不平等な身分制度があったけれど、生活の中には小さな笑いが生まれると思う。不意の笑いというとオナラくらいしか思いつかないけれど、小さなコミュニティの中にセンスの良い若者がいたはずだ。

 ちょっと落ち込むこともあるが、そんな時でも「笑い待ち」みたいなところがある。なんか笑えそうだなと思えると、心が回復している証拠だ。それは、怒っている人にも言えることなのだが、一度怒ってしまうと拳の下ろし方が分からなくなるものだ。そんな状況では笑いが入り込む余地がない。

 具体的な表記は避けるが、いま世界でもっとも哀しみに包まれていると思われている彼の国の人々は笑えているのだろうか。そして、その国を悲しませている国の一般の人々に笑いはあるのだろうか。日々の小さな笑いで心が安まることを祈る。無理して笑うんじゃなくて、自然に笑えるのが良い。

何もない長閑な日常。天気も良いし予定もない。それでも哀しみは消えない。

スウィートリトルジャーニー

 せっかくの連休なんだから旅行にでも行こうかなと思うのだが、そもそも仕事がヒマな時期は開店休業状態なので、いつだって旅立つことができる。ただ、なんとなく億劫なだけだ。勤めていた時は「せっかくの休み」というのを理由に無目的な旅行に出れた。今は理由探しで止まってしまうのだ。

 自粛生活からの気分転換という大義名分が誰にでもあるが、そこまでビシッと自粛していたわけじゃない。よくよく聞くと、一時期は本当に家に篭っていたという人もいる。そのせいで痩せたり性格が暗くなったりして、そんな人には気分転換が必要だろう。文字通りのレジャーを満喫して欲しい。

 別にこれは僕の逆張り性質ということでもないのだが、やはり大型連休の最中は道路などが混むので、あまり遠出したいと思わない。以前の勤め先が連休中でも仕事があり、休みは自分でズラして取っていたので、そのズラしたタイミングで「どうせなら」と、ちょっとだけ無理して旅行していた。

 生きている限り、インプットというのは必要である。普通に生きていても想像力が逞しければ、その日に起きた出来事を特別なストーリーに仕立て上げることができる。でも僕はごく普通の人間に過ぎない上、ウソが大嫌いという面倒な属性乗っかっている。だから、普通の日は普通に普通なのだ。

 その属性を補完するのが旅行なのだ。どんなに平凡な人間でも、無計画に遠出をすれば、トラブルに見舞われるに決まっている。もらい事故欲しさに彷徨っているのだ。そして、こちらの予想通りか、それよりちょっと面倒な程度のトラブルは当たり前に転がっている。巻き込まれようじゃないか。

 トラブルと記すと、本当にアレな世界の怖い人が登場して面倒に巻き込まれそうな気がするけれど、実際はもっとポップな話しだ。そこまでディープなトラブルに巻き込まれるには、国内旅行者では役不足なのだ。全然怖くない程度の、でも地元民的にはタルいのぉ的な面倒には秒で巻き込まれる。

こういう細い道で向こうから怖いルックの人が来たら、迷わず引き返そう。

風の声を聞き、土の匂いを嗅ぐ

 将来は早めにリタイアして、自給自足プラスアルファの農作業をしながら、慎ましく暮らすというライフプランを聞いたことがある。もう少し前は、脱サラして蕎麦屋になるという方向もあった。発想は近いものがあるが、自給自足の農業ライフの方が自由度が高くて難易度も高いような気がする。

 駅からのアクセスが悪く不便な立地にある蕎麦屋には、脱サラ独立系の店が多い。良い立地だと家賃が高いのか、自分の家を改装して蕎麦屋にしたのか、いずれかだろう。そんな蕎麦屋が意外と美味かったりする。安易発想で出店しているような印象があるのだが、ちゃんと味で勝負しているのだ。

 我が家の近所にも、そんな脱サラ独立系と思しき蕎麦屋があった。近所と言っても歩いて行ける場所ではなく、クルマじゃなきゃ行けない隣町の住宅地だ。店構えも普通の一軒家で、古民家をリノベーションした感じではなく、よくある分譲住宅のリビングを飲食スペースとして利用しているのだ。

 そんな他人の家感丸出しの店構えだが、ここが僕の蕎麦好き発祥の店となった。うどん派であり、ラーメンばっかり食べる貧乏舌の僕が、やっと蕎麦を美味いと感じられた。といってもシンプルなせいろではなく、鴨汁つけそばという濃い味系だ。それでも蕎麦自体の風味というか美味さを感じた。

 これに対して冒頭のリタイア自給自足ライフの件だ。別に相対関係にあるものではないが、スローライフを標榜する人々が地方の空き家でミニマム生活を送るというのは、脱サラ後の新たな道の別バージョンと言えそうだ。蕎麦屋は職業という感じがするが、自給自足スローライフは生き方である。

 こちらも、格安の家賃で移住者を受け入れる限界集落のことを、安易にペラッとした情報で判断してしまいそうだ。実際にそこで生きるとなると、容易ならざる覚悟だとか、そのコミュニティとの折衝能力が必要になると思う。そして、何でも自分でやるのも大変だ。今のところ僕にその気はない。

大好きな鴨汁せいろ大盛り。これは東日本橋のお店で脱サラ感はない。美味い。

包括的にリスペクト

 僕が応援しているプロ野球チームは、昨年リーグ最下位だった。今年は奮起して上位に食い込むかと思っていたが、今のところ5位と出遅れ気味。新型コロナウイルス感染による離脱者が続出したり、主砲の外国人選手2人の合流が遅れたりでスタートダッシュに躓いたが、その割には耐えている。

 今週に入りコロナ離脱者が戻りつつあるが、投手陣はまだ枚数が不足している。ケガによる離脱で開幕に間に合わなかったメンツもいるので、万全の戦力で戦えないままシーズンが続いている。ただ、その状態で組んだ打線が機能し始めている。全員戻ってきたらどうなるんだという期待しかない。

 去年と同じようにTVで熱心に観戦しているのだが、戦況や勝敗に一喜一憂していたら心が壊れてしまう。画面に向かって文字化をためらうような罵詈雑言を吐いても、結果には何も反映されない。もっと穏やかに、選手やベンチの監督コーチ、さらには相手チームへのリスペクトを持って観たい。

 僕にとって、自分がプレーしたと実感できるスポーツはラグビーだけだ。それは長い時間をかけて手に入れた。30歳前後の頃がイチバン調子良かったけれど、そこで膝の靭帯を断裂して以降はフェイドアウトして今に至る。そこでの感覚として「レフリーは絶対」という意識をずっと持っている。

 今でこそビデオ判定が導入されているが、基本的にラグビーのプレー中は審判の判定は覆らない。その圧倒的な不可逆性の中でプレーしている以上、審判への抗議は不毛だし、反則を取られることもあるし、その間も敵は攻めてくるので無駄でしかない。だから、笛が鳴ったらすぐ動くのが鉄則だ。

 他のスポーツでは、レフリーに選手が詰め寄るシーンがある。そういう行動をラグビーでやると即退場になってしまうが、あまり退場が多いレフリーは評価が低くなると聞いたこともある。そういう意味で、野球の審判ほどツラい職業はない。ストライク・ボールなどはAI判定になれば良いのに。

長く続いてる料金の安い中華屋にはリスペクトしかない。五目焼きそば最高!

スーパースーパーウォーカー

 家で飲もうと思ったときは、スーパーに行ってしこたま酒類を買い込んでくる。酒コーナーのラインナップが充実したスーパーが、近所に何店舗かある。酒専門のリカーショップの方が選択肢は多いのだが、自分の好みで比較するとスーパーの方が安くて便利だ。今日もそのスーパーで買い込んだ。

 芋焼酎の四合瓶を選んでいると、棚の反対側にいた店員の会話が聞こえてきた。パートのお姉さんから「先生」と呼ばれてやってきた社員と思しき男性が「また盗られたか」と呟いていた。どうやら酒コーナーでは、窃盗の被害が相次いでいるらしい。興味深く思いつつ、更なる情報を探っていた。

 何を盗られたとか、犯行時刻の目星はついているのかとか、怪しい人間を見かけなかったかとか、僕の中の捜査官が手帳片手に聞き込んでいる。でも、それに対する回答は得られない。実際は焼酎売り場で聞き耳を立てているだけだからだ。そこで得られた情報は、いまだ店は無策だということだ。

 あとひとつ、パートのお姉さんが呼んでいた先生という呼び名が気になる。その男性が彼女の教育係ということだろうか。もしかしたら、教師を辞めて勤めたスーパーに元教え子の母親がいたとか、などと想像してしまう。そんなことを考えていたら、何も決めずに棚の前で惚ける怪しい中年男だ。

 こんなところでウロウロしていたら窃盗犯と疑われてしまう。店員に怪しまれる前に、当初の目的通り飲み物を決めよう。日本酒と芋焼酎と有名なシソの焼酎を選んだ。我ながら惚れ惚れするような良いラインナップだ。これにビールを足して店を後にした。今夜の晩酌はとても充実しそうな予感。

 そういえば、クルマでこのスーパーに乗り付けたときに、停車時にナビが「盗難多発地域です」と報せてきた。我が町はどこにいても盗難多発地域なのだが、店員の話を聞くと余計に治安の悪さを感じてしまう。酒を盗むなんてタチの悪い盗賊だ。盗んだ酒を飲んでも、気持ちよく酔えないだろう。

ジョギングもいいけれど散歩も日課に加えたい。仕事する時間がなくなるが。