路上のツームストーン

 学生の頃、クルマに乗っている時に、路上に動物の死骸を見つけて「あ、可哀想」的なことを呟いたところ、同乗者に「死骸に同情すると取り憑かれるよ」と言われたことがある。それ以降、運転中に轢かれた動物を見つけても、何も感じないように心を閉ざしていた。取り憑かれたくないからだ。

 だが、そんなのは妄言だ。もはや誰が言ったのかも分からないスピリチュアル戯言に振り回されて、心を閉ざす必要はない。運転中に動物の礫死体を見つけたら、普通に「可哀想に、安らかに眠れ」的な気持ちを持ちたいし、そんな感じで通り過ぎるようになった。それでも取り憑かれてはいない。

 別に僕は、路上で轢かれる動物に対して、人間を代表して「文明の進化の犠牲者に哀悼の意を表する」などと思っているわけじゃない。単なる条件反射で可哀相だと感じるだけだ。そんな普通の感情に対して、あの時の謎の誰かは何故「取り憑かれる」などと言ったのか。いま考えると怖い言葉だ。

 それはきっと、まだ僕が幽霊を怖がっていた頃だから、それを知っている人間がからかうつもりで言ったのかもしれない。そんな心無い言葉に縛られて、何年も変な呪いにかかっていたわけだ。腹立たしい上に情けない。この気持ちをぶつけるべき相手の顔も分からない。だから、忘れるしかない。

 ちなみに僕が幽霊というフィクションの呪縛から解かれたのは、奇しくも京極夏彦京極堂シリーズを読み始めた頃だ。作中の人物が「この世には不思議なことなど何もない」という言葉で気が晴れたのだ。逆に京極堂の言葉の呪いにかかったとも言えるが、こっちの呪いなら無害なので構わない。

 そうやって闇抜けしたつもりだったが、不意に路上の死骸を見つけると、条件反射的に心を閉ざすことがある。先に可哀相が来るときもあるが、無きものとして素通りすることもある。先ほど、ジョギングの途中で路上に鳩の死骸を見つけた時も、つい無心になっていた。気に病むことではないが。

狭い道でクルマに轢かれそうになり、つい睨みつけてしまうクセを直したい。